死の床で、フォーレは弦楽四重奏曲を試演するという申し出を断っている。聴覚障害のために「やめてくれ! きっとおぞましいものにしか聞こえないのだから」と言って、聴くのを拒んだという[7][8]。, 11月2日にフォーレは発作を起こして苦しみ、記憶も混乱した[5]。

ニロ抜き長音階が使われたサビが心にしみますね。, ♪a-moll(Am)のニロ抜き短音階。第2・第6音のシ(B)・ファ(F)が抜けている。(画像、MIDIは筆者作), こちらが「ニロ抜き短音階」になります。

そんな日本の夏の雰囲気を感じるサビも、ヨナ抜き音階が使われています。 これらによって気力を取り戻したフォーレは、同年9月9日付けの妻マリーに宛てた手紙で、弦楽四重奏曲の着手について次のように報告している[5]。, 「私は毎日少しずつ曲を書いています。そう、ほんの少しです。これまで何度もあったように、この最初の模索がどんな運命をたどるのかまだ分かりません。実はピアノを使わない弦楽四重奏曲に着手したのです。これはベートーヴェンによって知られるようになった分野で、彼以外の人はみな恐れて、あまり手を付けていません。ためらってきました。サン=サーンスもそうで、それに取り組んだのはようやく晩年になってのことでした。そして彼の場合も、他の作曲分野のようにはうまくいきませんでした。そんなわけで、今度は私が恐れる番だとおっしゃるかもしれませんね……。だからそのことについては誰にも話してはいないのです。これからも目標に手が届くようになるまで、話すつもりはありません。『お仕事をなさっていますか』と聞かれても、私は図々しく『いいえ』と答えています。だから誰にもいわないでください。」, 最初に書かれたのは第2楽章であり、9月12日に完成した。つづいて同年秋にパリの自宅で第1楽章が書かれた[7][3][5]。, このころ、フォーレは音楽誌『ルヴュー・ミュジカル』編集者のアンリ・プリュニエールと親しくなり、同誌の特別号「ロンサールと音楽」のために歌曲の寄稿を依頼された。1923年11月3日にフォーレはプリュニエールの依頼を引き受け、ロンサールの詩に基づいて作曲を始めた。ところが、モーリス・ラヴェルもプリュニエールの依頼によって同一の詩を選んで作曲していたことが判明し、フォーレは自作の草稿を破棄してしまった。批評家のギュスターヴ・サマジルによると、このことを知ったラヴェルはパリ音楽院の師であったフォーレに優先権を譲ると申し出たものの、その内心は穏やかでなかったようだと述べている。フォーレにとって「遺言」ともなるはずだった歌曲は、このような経過によって失われた[5]。, 1923年の冬からは、フォーレは動脈硬化による手足の痺れと半睡状態に見舞われた。年が明けて1924年の春も、次男フィリップの回想によれば、肉体の衰弱のために「陰気で退屈なものであった」という[3]。, しかし、6月20日から約1ヶ月間ディヴォンヌ=レ=バンのグランド・ホテルに滞在したフォーレは、ディヴォンヌの静かで軽やかな空気や部屋のテラスから望めるアルプスの景色に囲まれながら終楽章に着手した。次男フィリップによれば、仕事はフォーレに喜びを与え、彼は自らを立ち直らせたある種の内なる喜悦に浸って毎日を送っていた[3][5]。 現代日本に生きる幅広い世代や様々な背景を持つ登場人物たち、視聴者たちに直撃した曲となりました。, 2017年公開のアニメ映画「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」の主題歌。, 鮮やかなのにどこか懐かしい。 実はニロ抜き長音階は、沖縄の伝統音階「琉球音階」と同じなのです。, このニロ抜き長音階を用いた曲は、「THE 沖縄」の雰囲気を感じられることでしょう。, 琉球音階の本場、沖縄県出身の3人組アコースティックバンド・BEGINの「島人ぬ宝(しまんちゅぬたから)」。 この曲はF-dur(Fメジャー)の曲なので、抜く音は第4音の♭シ(♭B)、第7音のミ(E)になります。 小ミサ曲 しかも、和声の表現にぎりぎりまで心を砕いているフォーレが、 レクイエムの傑作として知られ、フォーレの全作品中で最も演奏機会が多い。 しばしば、モーツァルト、ヴェルディの作品とともに「三大レクイエム」の一つに数えられる。

合唱曲, トマス・ルイス・デ・ビクトリア(合唱曲), ジョヴァンニ・ダ・パレストリーナ(合唱曲), アントニン・ドボルジャーク(チェコ語), ヨハン・アダム・ラインケン(オルガン・コラール幻想曲), ヨハン・ゼバスチアン・バッハ(オルガン・コラール幻想曲). ´ç¿’したことがある。, まりんきょ学問所 >

ガブリエル・ユルバン・フォーレ(Gabriel Urbain Fauré, フランス語発音: ['gabʁjɛl 'yʁbɛ̃ 'fɔʁe], 1845年5月12日 - 1924年11月4日)はフランスの作曲家。フランス語による実際の発音はフォレに近い 。 「五音階(ペンタトニック・スケール)」というカテゴリに属します。, C-durの音階から2音足りないわけですが、どの2音を抜くか。 しばらくの間話せるようになったフォーレは、二人の息子に次のような言葉を残した。, 「私がこの世を去ったら、私の作品がいわんとすることに耳を傾けてほしい。結局、それがすべてだったのだ……。おそらく時間が解決してくれるだろう……。心を悩ましたり、深く悲しんだりしてはいけない。それは、サン=サーンスや他の人々にも訪れた運命なのだから……。忘れられる時は必ず来る……。そのようなことは取るに足らないことなのだ。私は出来る限りのことをした……後は神の思し召しに従うまで……。」, また、フォーレはロジェ=デュカスを迎えて、「わかるね、あなたにきちんと仕上げてほしい……。」とだけ言えたという[5]。, 1924年11月4日、フォーレは静かに息を引き取った[5]。フォーレの死にフランス政府は弔意を表し、11月8日に国葬を執り行った。マドレーヌ寺院において、フォーレのレクイエムが演奏され、ナディア・ブーランジェが弔辞を述べた。しかし、葬儀に当たってときの文部大臣フランソワ・アルベールは「フォーレとは何者か」と尋ねたという。フォーレはパリのパッシー墓地に葬られた。後に、友人アンドレ・メサジェも隣に葬られた[3][5]。, フォーレの遺言どおり、弦楽四重奏曲の演奏と出版は彼の友人たちによって確かめられた[3][9]。, 1925年6月12日、パリ音楽院ホールで開催された国民音楽協会の演奏会において、ジャック・ティボーとロベール・クレットリーのヴァイオリン、モーリス・ヴィユーのヴィオラ、アンドレ・エッキングのチェロによって初演された[7][3][10]。, 作品は、1925年にデュラン社から出版され、フォーレが演奏・出版の判断を託した友人たちのひとり、批評家のカミーユ・ベレーグに献呈された[1][10]。 楽譜から分かるように、この2つの音は一切使われていません。, 日本人が作った曲でなくても、音階の使い方が分かれば和のテイストを感じられることが分かりましたね。, ここまで民謡や昔ながらの曲を聞いてきましたが、次はJ-Popなど現代の曲にスポットを当てていきましょう。, ハリウッド映画の劇中にも登場した、日本国内外で人気の「にんじゃりばんばん」。 打ち上げられた花火が消えていき、現実に引き戻されるような感覚をイメージしてしまいますね。, もうひとつ米津の曲を。「<NHK>2020応援ソング プロジェクト」で結成したFoorinへ提供した楽曲のセルフカバーです。, こちらもサビでヨナ抜き音階を使用しています。 『レクイエム ニ短調 作品48』は、フランスの作曲家フォーレによる1888年初演の宗教曲。.

特徴 位置づけ. 米津の雰囲気ある歌い方や子供たちの歌声で、懐かしい夏休みの風景を思い起こさせるノスタルジックに浸れますね。, ヨナ抜き音階を通して、音階が曲想や雰囲気にいかに影響してくるかが分かったことでしょう。, 次はヨナ抜き音階に比べて使われる頻度の少ない、ちょっと珍しい「ニロ抜き音階」をご紹介します。, ♪C-durのニロ抜き長音階。第2・第6音のレ(D)・ラ(A)が抜けている。(画像、MIDIは筆者作), あれ、沖縄っぽい…? と思った方。大正解です。 フォーレ好きが高じた一つの例で、 団員には迷惑をかけたかもしれないがいい曲だという意見があったのでこれでいいことにしている。 なんでもある合唱団の指揮者によればこの曲は有名なのだそうだが、本当だろうか? 4.

名曲が「不思議と耳に残る」現象も、曲と私たちの体に染みついたこのDNAによるものだったかもしれません。, 本サイト内記事の情報・写真は取材・執筆当時のものです。ご利用の際に商品やサービスの内容・料金(消費税率含む)等が実際とは異なっている場合がございます。ご了承ください。, 7月といえば何をイメージしますか? 夏、海開き、山開き、七夕……行事もたくさんありますね。 ここでは7月に聞きたい・歌いたい日本の名曲を、記念日に紐づ[…], 世界遺産「平泉」(正式名は、平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群-)。今から千年近く前、この地には京の都よりも栄えたといわれる黄金の[…], 「アニソン」ことアニメソングは、今や一つの音楽ジャンルとして確立するほど私たちの身近な存在になっています。みなさんのスマホや音楽プレーヤーに神曲が一曲[…], 下克上の代名詞的存在で「蝮(まむし)」と呼ばれた斎藤道三と少年時代は「うつけ」と呼ばれた後の天下人織田信長。 この二人は舅と婿の間柄にあっただけでなく[…], 次回のコメントで使用するためブラウザーに自分の名前、メールアドレス、サイトを保存する。, 多言語観光情報サイト Guidoor | ガイドア は8言語に対応した、国内外の観光客のみなさまに日本全国の文化・伝統などをより広く、深く知っていただけるサイトです。, 多言語観光情報サイト Guidoor | ガイドア は、国内外の観光客のみなさまに、地元自治体から提供された、観光情報、災害時の防災情報などを多言語で発信しているプラットフォームです。日本の文化・伝統などをより広く、深く知っていただけるよう世界に向けて、8言語で発信しています。, 2年間のヨーロッパ留学から帰国したのち、いままで何も考えずに受け止めていた日本の文化や生活の魅力に気づく。趣味である音楽・文化・旅行方面からのアプローチを中心に「まだ知らない日本」をご紹介します。, http://www.guidoor.jp/media/wp-content/uploads/2019/07/Kimi_ga_Yo_instrumental.ogg, http://www.navyband.navy.mil/Anthems/national_anthems.htm, http://www.guidoor.jp/media/wp-content/uploads/2019/07/Auld_Lang_Syne_-_U.S._Army_Band.ogg, http://www.guidoor.jp/media/wp-content/uploads/2019/07/dd0e864aeed7c1e1ba007035b5ed070e.mp3, http://www.guidoor.jp/media/wp-content/uploads/2019/07/43b3b3caab4cdd2383b92b00fd6aec5e.mp3, 「飲み手」を意識したクラフトビールが造りたい/東京・CRAFTROCK BREWING 鈴木諒, 唯一無二のクラフトビール造り/神奈川・BarbaricWORKS 安藤佑一 & 永石卓宏, クラフトビールの祭典「Brewskival 2020 in Tokyo」独占取材!!ヨーロッパ最大級のビアフェスが日本初上陸!!.

なのではないか。

曲全体に使われたニロ抜き短音階が醸し出すやるせない雰囲気と、戦いに身を投じる侍たちの力強さを感じるアニソンです。, こちらも同じアニメの主題歌です。 先述のC-durの音階と「ヨナ抜き音階」を聞き比べてみましょう。, http://www.guidoor.jp/media/wp-content/uploads/2019/07/80cd8c463b2067a929f6902a54798f97.mp3, ♪C-dur(Cメジャー)のヨナ抜き長音階。第4・第7音にあたる、ファ・シが抜けている。(画像、MIDIは筆者作), C-dur(Cメジャー)では、第4音・第7音にあたるファ(F)とシ(B)がなくなりました。 フォーレは1845年にフランスのパミエに生まれ、ニーデルメイエール古典宗教音楽学校にて音楽を学びました。16歳の時にはサン=サーンスからピアノと作曲のレッスンを受け、卒業後はフランス西部の街レンヌ及びパリのマドレーヌ教会にてオルガニストとして活躍を遂げます。 演奏・作曲以外のキャリアとしては、1871年に師でもあったサン=サーンスらとともにフランス国民音楽協会の設立に参加。 1896年にフランス国立 … ここでは、昔から使われていた伝統の「音階」について紹介します。

この歌詞の周辺には、拍の頭という目立つ場所に第4音・第7音を持ってこない徹底ぶりです。, 逆に、サビ後半では拍の頭に第4音・第7音を使っています。 ガブリエル・ユルバン・フォーレ(Gabriel Urbain Fauré, フランス語発音: ['gabʁjɛl 'yʁbɛ̃ 'fɔʁe], 1845年5月12日 - 1924年11月4日)はフランスの作曲家。フランス語による実際の発音はフォレに近い[1]。, フランス南部、アリエージュ県パミエで教師だった父の元に5男1女の末っ子として生まれた。幼い頃から教会のリード・オルガンに触れるうちに天性の楽才を見出される。フォーレは9歳のときに入学したパリのニーデルメイエール古典宗教音楽学校(1853年開校)にて学び[2]、教師で校長であったルイ・ニーデルメイエールの死後、1861年に教師としてやってきたカミーユ・サン=サーンスにピアノと作曲を師事した。1865年に卒業したのち、旅行先のレンヌにて教会オルガニストの職を得た。1870年、フランスに戻ったときには当時勃発していた普仏戦争において、歩兵部隊に従軍志願している。のち、パリのマドレーヌ教会でオルガニストとなり、1896年にはマドレーヌ教会の首席ピアニストに任じられ、またフランス国立音楽・演劇学校の教授にもなっている。1871年にはサン=サーンス、フランクらとともにフランス国民音楽協会の設立に参加している。, 父親の死後に作曲された『レクイエム』は彼の代表作の一つである。他の管弦楽や声楽を含んだ大規模作品として、オペラ『ペネロープ』、『プロメテ』、『マスクとベルガマスク』、『ペレアスとメリザンド』などがある。, フォーレはむしろ小規模編成の楽曲を好み、室内楽作品に名作が多い。それぞれ2曲ずつのピアノ五重奏曲、ピアノ四重奏曲、ヴァイオリンソナタ、チェロソナタと、各1曲のピアノ三重奏曲、弦楽四重奏曲がある。, また『バラード 作品19』、『主題と変奏 作品73』、『舟歌』、『夜想曲』、『即興曲』、『ヴァルス・カプリス』、『前奏曲 作品109』など生涯にわたって多くのピアノ曲を作った。, 歌曲でも『夢のあとに』(Après un rêve)、『イスファハーンの薔薇』(Les roses d'Ispahan)、『祈り』(En prière)、ヴェルレーヌの詩に曲をつけた『月の光』(Clair de lune)、20篇のうち9篇を選んで作曲した『優しい歌』(La Bonne Chanson) などかなりの数の歌曲を残している。, 晩年には、難聴に加えて高い音がより低く、低い音がより高く聞こえるという症状に悩まされながら作曲を続けた。ピアノ五重奏曲第1番以降の作品は、そうした時期のもので、次第により簡潔で厳しい作風へと向かっていった。, 肺炎のためパリで死去した。マドレーヌ教会で『レクイエム』の演奏される中、国葬が行われ、パリのパッシー墓地に葬られた。, フォーレは、リスト、ベルリオーズ、ブラームスらが成熟期の作品を生み出していたころに青年期を過ごし、古典的調性が崩壊し、多調、無調の作品が数多く書かれ、微分音、十二音技法などが試みられていた頃に晩年を迎えている。なかでも、調性崩壊の引き金を引いたワーグナーの影響力は絶大で、同時代の作曲家は多かれ少なかれ、ワーグナーにどう対処するかを迫られた。, こうした流れのなかで、フォーレの音楽は、折衷的な様相を見せる。ワーグナーに対しては、ドビュッシーのようにその影響を拒否するのでなく、歌劇『ペネロープ(英語版)』でライトモティーフを採用するなど一定の影響を受けつつも、その亜流とはならなかった。形式面では、サン=サーンスの古典主義にとどまることはしなかったが、その作品形態は当時の流行を追わず、古典主義的な楽曲形式を採用した。調性においては、頻繁な転調のなかに、ときとして無調的な響きも挿入されるが、旋律や調性から離れることはなかった。音階においては、旋法性やドビュッシーが打ち立てた全音音階を取り入れているが、これらに支配されたり、基づくことはなかった。, このように、フォーレは音楽史上に残るような新たな様式を打ち立てたりしていない[要出典]。フォーレの音楽は劇的表現をめざすものではなかったので、大規模管弦楽を擁する大作は必然的に少ない。ただし、和声の領域では、フォーレはシャブリエとともに、ドビュッシー、ラヴェルへの橋渡しといえる存在であり、19世紀と20世紀をつなぐ役割を果たしている。, フォーレの音楽は、便宜的に初期・中期・晩年の3期に分けられることが多い。初期の代表作として、ヴァイオリン・ソナタ第1番(作品13)やピアノ四重奏曲第1番(作品15)があるが、この時期の作品は親しみやすく、とくにヴァイオリン・ソナタ第1番は、フォーレの全作品中おそらく最も演奏機会の多い曲である[要出典]。夜想曲では第1番から第5番、舟歌では第1番から第4番が相当する。初期の作品には、明確な調性と拍節感のもとで、清新な旋律線が際だっている。旋律を歌わせる際にはユニゾン、伴奏形には装飾的かつ流動的なアルペジオが多用される。ユニゾンとアルペジオは、フォーレの生涯にわたって特徴的に見られるが、この時期のそれは、もっぱら音色の効果や装飾性の域を脱するものではない。, フォーレの中期あるいは第2期は、ピアノ四重奏曲第2番(作品45)、『レクイエム』(作品48)、『パヴァーヌ』(作品50)などが作曲された1880年代の後半から、ピアノ五重奏曲第1番(作品89)が完成した1900年代前半までと見られ、他に『主題と変奏』(作品73)、『ペレアスとメリザンド』(作品80)などがある。夜想曲では第6番から第8番、舟歌では第5番から第7番が相当する。初期の曲に見られる、輝かしく外面的な要素は、年を経るに従って次第に影を潜め、より息の長い、求心的で簡素化された語法へと変化していく。また、ひとつひとつの音を保ちながら、和声をより流動的に扱うことにより、拍節感は崩れ、内声部は半音階的であいまいな調性で進行するようになる。こうした微妙な内声の変化のうえに、調性的・旋法的で簡素な、にもかかわらず流麗なメロディをつけ歌わせるというのが、フォーレの音楽の特色となっている。, 歌劇『ペネロープ』やヴァイオリン・ソナタ第2番(作品108)が作曲された1900年代後半からは、晩年と見られる。夜想曲では第9番以降、舟歌では第8番以降。耳の障害が始まり、扱う音域も狭くなり、半音階的な動きが支配的で、調性感はより希薄になっていく。しかし、この時期の一連の室内楽作品は、壮大な規模と深い精神性を湛えた傑作群である。ピアノ五重奏曲第2番(作品115)やピアノ三重奏曲(作品120)では、冒頭にピアノによるアルペジオが見られるが、もはや華やかさとは無縁の、単純化された音型であり、弦のユニゾンもまた、抽象的な高みへの追求あるいは収斂性として働いている。, フォーレ研究家として知られるジャン=ミシェル・ネクトゥーは、著書『ガブリエル・フォーレ』のなかで、同時代の文学者マルセル・プルーストがフォーレの音楽に魅了されていたとし、プルーストとフォーレをともにアール・ヌーヴォーに属する芸術家として位置づけた上で、「そのまがりくねり互いに絡み合った長いフレーズと常時現れる花にまつわる主題は、まさに1900年の芸術を象徴するものである。」と述べている。, 一般に、アール・ヌーヴォーは19世紀末から20世紀初頭の装飾美術・デザインに適用される様式概念であり、ネクトゥーの説はこれを文学、音楽に敷衍させたものといえる。この指摘は、アール・ヌーヴォーのもつ装飾性や、コントラストでなく曲線重視といった表現性を、フォーレの音楽性と通じるものとしてみている。この観点からは、フォーレの別の側面が見えてくることも事実である。装飾的な音型がメロディーに同化している点で、初期の歌曲『夢のあとに』がまず挙げられる。さらに、「舟歌」をはじめとして、アルペジオへのフォーレの傾斜は、晩年まで見られる特徴である。ただし、「装飾音」であっても、その効果あるいは意図するところは、すでに述べたように、初期と晩年では相当に違っている。, フォーレは、当時のサロンで受け入れられたため、ドビュッシーを初めとして、フォーレの作品を「サロン音楽」と矮小化して受けとめる風潮も現在まで存在する。とはいえ、それはその高貴さ、崇高さの表れとも考えられ[要出典]、フォーレの音楽は、とくに中期から晩年にかけてのそれは、規模の小さな作品においても、ただ柔らかく上品で、洗練されているというだけで終わってはいない。ごく自然に流れる音の流れが、実は伝統的なあらゆる手法を駆使した、独自の緻密な構成によっている。, 1906年に、フォーレは妻にあてた手紙でピアノ四重奏曲第2番のアダージョ楽章について触れ、「存在しないものへの願望は、おそらく音楽の領域に属するものなのだろう」と書いている。また、1908年には次男フィリップに「私にとって芸術、とりわけ音楽とは、可能な限り人間をいまある現実から引き上げてくれるものなのだ」と書き残している。, フォーレは死の2日前、二人の息子に次のような言葉を残している。「私がこの世を去ったら、私の作品が言わんとすることに耳を傾けてほしい。結局、それがすべてだったのだ……」, フォーレは1896年にマスネの後任としてフランス国立音楽・演劇学校の作曲科教授となっており、その門弟にはモーリス・ラヴェル、ジャン・ロジェ=デュカス、ジョルジェ・エネスクらがいる。, ラヴェルがローマ大賞を落選した、いわゆる「ラヴェル事件」により1905年にはテオドール・デュボワの後任として音楽院院長となり(1920年まで)、音楽院改革を行った結果《ロベスピエール》とあだ名されるようになったが、この時の改革のうち、入学前の生徒の教授との癒着を避けるため、音楽院の外部者に入学審査を行わせたことは、現在でも入学審査に必ず音楽院の外部者が加わっているという形で受け継がれている。このように彼は優れた音楽教育者としても知られている。, 『レクイエム』で知られ、教会オルガニストであったことから敬虔なカトリック教徒というイメージが強いが、フォーレ自身、必ずしもそうでないことを認めている[3]。, 実際、若いころのフォーレは享楽的な傾向を持ち、1883年に彫刻家エマニュエル・フルミエの娘、マリーと結婚した後も、90年代前半はのちにドビュッシー夫人となったエンマ・バルダックと、後半はイギリスの楽譜出版社の夫人のアディーラ・マディソンと関係を持ち、そして1900年『プロメテ』初演時にアルフォンス・アッセルマン(ハーピスト・作曲家)の娘、マルグリット・アッセルマンと出逢い、そののち彼女を生涯旅行などに付き添わせるといった愛人たちとの交際を続けた。, なお、妻マリー・フルミエとの間には息子エマニュエル(1883-1971)とフィリップ(1889-1954)がいる[4]。エマニュエルは動物学者で繊毛虫の研究者、フランス動物学協会会長、科学アカデミー会員となった[5]。また、フォーレの孫とされるフォーレ・ハラダという日仏混血の画家がいる[6]。本人によると、フランス人の父、日本人の母(ともにピアニスト)のもとアヴィニョンで生まれ(国籍日本)、フランス、ドイツ、日本、インドなどで教育を受け、日本とアメリカに暮らしながら、禅アーチストとして外国人に墨絵を教えていた[7][6]。, ネクトゥーには4冊の研究書(うち3冊は日本語版あり)があり、近年の研究の進んだものとして知られる。, このほか、フォーレ関係の著作には、次男フィリップ・フォーレ=フレミエの伝記、弟子のエミール・ヴュイエルモーズ等のフォーレ論、またアルフレッド・コルトー(『フランス・ピアノ音楽第一巻』収録)、マルグリット・ロン等によるピアノ曲の解説などがある。, ピアノ五重奏曲第1番 - ピアノ五重奏曲第2番 - 弦楽四重奏曲 - ピアノ四重奏曲第1番 - ピアノ四重奏曲第2番 - ピアノ三重奏曲 - ヴァイオリンソナタ第1番 - ヴァイオリンソナタ第2番 - チェロソナタ第1番 - チェロソナタ第2番, 主題と変奏 - ドリー - ヴァルス=カプリス - 即興曲 - 夜想曲 - 舟歌 - 前奏曲, 「私の『レクイエム』について言うならば、恐らく本能的に慣習から逃れようと試みたのであり、長い間画一的な葬儀のオルガン伴奏をつとめた結果がここに現れている。私はうんざりして何かほかのことをしてみたかったのだ。」(『ガブリエル・フォーレ 1845‐1924』p.83), Like A Catfish .He Slips From Subject To Subject With A Smile, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ガブリエル・フォーレ&oldid=78236445, ジャン=ミシェル・ネクトゥー編著『サン=サーンスとフォーレ 往復書簡集 1862-1920』. 『レクイエム ニ短調 作品48』は、フランスの作曲家フォーレによる1888年初演の宗教曲。, レクイエムの傑作として知られ、フォーレの全作品中で最も演奏機会が多い。しばしば、モーツァルト、ヴェルディの作品とともに「三大レクイエム」の一つに数えられる。, 『レクイエム ニ短調』が初演されたパリのマドレーヌ教会。フォーレはここでオルガニストを務めた。, ニ短調。オーケストラのユニゾンによる重々しい主音で始まる。キリエではやや律動的になる。, ロ短調。オ・ドミネの部分はカノン風。中間部はバリトン独唱によるホスティアスとなる。同音反復による朗唱が特徴的。清澄なアーメンコーラスで締めくくられる。, 変ホ長調。弦とハープの分散和音、ヴァイオリンのオブリガートに伴われ、ソプラノとテノールが互いに歌い交わしながら感動的なオザンナの部分に達する。, 変ロ長調。ソプラノ独唱。オーケストラは独唱の余韻のように寄り添う。『ピエ・イエス』、『ピエ・イエズ』との表記も。, ニ短調。この曲と第7曲「イン・パラディスム」は、本来のミサに入っておらず、ミサ終了後の祈りの歌が採られている。, ニ長調。イン・パラディスムは「楽園に」の意味。本来の死者ミサの一部ではなく、棺を埋葬する時に用いられる祈祷文に作曲したもの。, マドレーヌ寺院での初演の際、「斬新過ぎる」と寺院の司祭から叱責されたほか、「死の恐ろしさが表現されていない」、「異教徒的」などとの批判が当時から出ていたという。, 実際、フォーレのレクイエムの構成は、当時のカトリックの死者ミサの形式では必須であった「怒りの日」などを欠くなど、そのままではミサに用いることの出来ない形式をとっている。, 「私のレクイエム……は、死に対する恐怖感を表現していないと言われており、なかにはこの曲を死の子守歌と呼んだ人もいます。しかし、私には、死はそのように感じられるのであり、それは苦しみというより、むしろ永遠の至福の喜びに満ちた開放感に他なりません。」, また、晩年の1921年には、歌劇『ペネロペ』の脚本家への手紙の中で、次のように述べている。, 「私が宗教的幻想として抱いたものは、すべてレクイエムの中に込めました。それに、このレクイエムですら、徹頭徹尾、人間的な感情によって支配されているのです。つまり、それは永遠的安らぎに対する信頼感です。」.