ティグレス・デ・カルタヘナ (2015), アンドリュー高等学校 東京巨人軍 (1938 - 1942) 読売ジャイアンツ (1997 - 2005) オリックス・バファローズ (2006 - 2008), カージナル・ニューマン高等学校 旧制法政大学 カサドレス・デ・アルテミサ 読売ジャイアンツ (1975 - 1976) 読売ジャイアンツ (1977), 天理高等学校 読売ジャイアンツ (2016 - 2017), レニャドレス・デ・ラス・トゥーナス

そんな選手じゃない」と発言[10]。, 2006年1月にこれまで金本や佐々岡真司らと共に行っていた鹿児島県・最福寺での護摩行合宿を単独で3泊4日かけて行った。また、開幕前の3月に開催された第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本代表に選出された。2次リーグの韓国戦では一打逆転サヨナラの場面で空振り三振に倒れるなど結果を残せず、出場機会はごくわずかだった。シーズンでは、マーティ・レオ・ブラウン監督が掲げていたケースバッティングを心がけたのが実を結び、本塁打数は25本と前年より減少したが、前年を上回る100打点を記録した[5]。一方で、積極的に打ちに行く打撃スタイルから四球数が非常に少なく選球眼の悪さを指摘された。オフには「カープが好きだし、いられるならずっといたい。このチームで優勝したい」と語った[11]。, 2007年は自己最多の55四球を選び、28本塁打、102打点を記録した。守備では三塁手として最多の守備機会でリーグトップの守備率を記録。シーズン終了後には北京オリンピックアジア予選兼第24回アジア野球選手権大会に全試合で4番・一塁手として出場し、日本代表の五輪出場権獲得に大きく貢献した。この年に国内FA権を所得。前年まで、FA権を得ても広島に残留する旨の発言を繰り返していたが、「自分を厳しい環境に置き、そこでどう変わっていくか、挑戦する気持ちが出てきた」[12] との理由で、オフにFA権の行使を宣言。「残留に傾いた日もあれば、宣言しようとした日もある。その繰り返しで焦っていた」という状況の中で、1か月間悩み抜いた末「残留したら、いつか後悔するかもしれない」との考えに至った[13]。記者会見の席では「カープが好きだから、辛かったです」「喜んで出て行くわけではない」「FAなんてなかったら良かったのに……」と涙ながらに発言した[12][13]。, 前述のFA権行使宣言を受けて、阪神タイガースや福岡ソフトバンクホークスなど、複数の球団が新井の獲得に乗り出した。しかし、新井にとって絶対的な存在の金本がいる阪神が圧倒的に有利な状況にあったため、他球団は獲得を見送った。新井自身も阪神と2度の交渉を経て入団の意志を表明。アジア野球選手権大会終了後に入団を正式に発表した。2007年12月11日付で、NPBからFA宣言選手契約締結合意が公示された。, 新井の自著『阪神の四番』によれば、移籍の最大の理由は「もう一度金本と一緒に野球がしたい」という金本移籍以来抱えていた強い思いであったが、それを口にすれば金本本人に迷惑が及ぶとして会見では自重した。また、「FAなんて……」という発言は「FAがなければ金本が出て行くことはなかったし、金本がいれば自分も移籍を考えることはなかった」という思いから自然と口に出てしまったものであった。翌年1月2日に放送された広島ホームテレビの特別番組では「僕のことを野次るファンよりも僕の方がカープを愛してる」と語り、広島への愛着と未練を覗かせた。阪神に移籍した後も「今でもやっぱりカープの試合は気になる」と古巣への愛着を口にしていた[14]。, 2008年は古巣・広島と移籍後初めて対した広島市民球場での公式戦(4月1日)に、「3番・一塁手」としてスタメンで出場。広島時代のレプリカユニフォームがグラウンドに投げ込まれたほか、広島ファンから大きなブーイングを受けながらも[15]、3打数2安打2四球でチームの勝利に貢献した[16]。その一方で、同月12日の対横浜ベイスターズ戦(横浜)で、寺原隼人から安打を放って通算1,000本安打を達成。このシーズンの前半戦は好調で高打率を維持し、チームの首位独走に貢献した。しかし、前半戦終了間近になって腰痛を訴え、一時登録を抹消されて以降は不振に陥った。北京五輪の日本代表に選ばれ、怪我を押して4番・一塁手として全試合に先発出場。予選リーグの対韓国戦では先制2ランを放ったが、腰痛により全体として満足な打撃はできなかった。五輪期間中に症状が悪化し、帰国後、腰椎の疲労骨折であったことが発覚。後に「これで二度と野球ができなくなっても構わないという覚悟で五輪に挑んでいた」と語っている[17]。一方、当時の阪神監督の岡田彰布は自著で阪神から帯同させていた新井付きのトレーナーが新井の症状を把握していなかったこと、新井が五輪で全試合に出たのに帰ってきてから阪神の試合に出られなかったこと、などに対する怒りを自著に書いている[18](北京五輪を巡る経緯の詳細はメークドラマ#2008年(メークレジェンド)参照)。シーズン成績も8本塁打・59打点と落としたが、守備では自身初となるゴールデングラブ賞を一塁手部門で受賞。12月には宮本慎也から日本プロ野球選手会会長職を引き継いだ。, 2009年は第2回WBCの日本代表の一次候補者入りを打診されたが、腰の状態を理由に辞退した。同年シーズンでは全試合スタメンでフル出場し、15本塁打、82打点を記録したが、一方でリーグワーストの20併殺打、出塁率.299、OPS.700に終わった。U-26 NPB選抜 対 大学日本代表にはオーバーエイジで大会最年長選手として出場。, 2010年は長らく阪神の4番を務めてきた金本が4月18日の対横浜戦でスタメン落ちしたことにより、移籍後初めて4番に座った。それ以降ほぼ全ての試合で4番を打ち続け自己最高の打率・打点・盗塁を記録した。また、2年連続のシーズンフルイニング出場(全て三塁手)を記録した。オフにトレードで弟・良太が阪神に移籍し、自身が阪神を退団する2014年まで共に同じチームでプレーすることになった。, 2011年は3月に発生した東日本大震災後、当初予定通りの日程でシーズン開幕すると発表したセントラル・リーグに対し、労組プロ野球選手会会長として開幕の延期を強く要望し、問題解決のため奔走した。その中で出場したオープン戦では、心身ともに疲労が重なり20打数以上の連続無安打が続いたが、選手会側の要求通り開幕の延期が決定した後は調子を戻した。震災被災地支援のため、2011年シーズンに放った本塁打1本につき10万円、打点1点につき5万円の義援金を送ると開幕前に発表。開幕戦では「4番・三塁手」で出場し、同点打を放ってお立ち台に立った。4月19日にサヨナラ安打を放っていた弟・良太に続き、同22日に新井も4番定着後初となるサヨナラ安打を放ち、史上初の同年同一チーム所属の実兄弟揃ってのサヨナラ安打が実現した[19]。しかし交流戦に入ると打撃不振に陥り、さらに得点圏に走者を置いての凡退も目立ったため、2度にわたって4番から外れる経験をしたが、最後は4番に戻り、リーグトップの93打点で打点王のタイトルを獲得した[5]。なお、この年は併殺打と失策数もリーグトップだったことから、翌年のキャンプで金本から失策王・併殺打王・打点王の三冠王であるといじられた[20]。オフに再取得したFA権を行使した上で新たに3年契約を結び残留した。, 2012年は開幕4番で迎えたが、以前より抱えていた慢性的な右肩痛の悪化により打撃不振に陥った。5月始めには6番に降格、それまでの2年間4番でのスタメン出場がなかった金本に4番を明け渡した[21]。5月末にはスタメンからも外れる時期もあった[22]。その後4番に戻ることもあったが打撃の調子は上がらず、弟の良太が4番を打つことになり、以後は6番・一塁で出場が主となった。7月29日の対横浜DeNAベイスターズ戦(阪神甲子園球場)で、同じく先発出場した良太とともに本塁打を放ち、1981年にロッテ・オリオンズのレロン・リーとレオン・リーが記録して以来、31年ぶり3組目の兄弟同一試合本塁打を記録した[23]。しかし9月に右肩痛で登録抹消されるなど同年は122試合の出場にとどまり、2008年以来4年ぶりに全試合出場を果たせなかった。また規定打席に到達しながらも打率.250・9本塁打・52打点で阪神移籍後最低の成績に終わった。後の報道で右肩後方関節唇損傷、腱板不全断裂、肩峰下滑液包炎と複数の大きな怪我を抱えながら試合に出場していたことが明らかとなったが、シーズン中は公表していなかった。12月には日本プロ野球選手会会長職を嶋基宏に譲った。, 2013年は2005年以来の開幕ベンチスタートとなったが、その後スタメンの機会を得て、6月8日の対千葉ロッテマリーンズ戦(阪神甲子園球場)で成瀬善久から本塁打を放ち、通算1,000打点を達成[24]。オールスターゲームにも出場し、2戦目で決勝打を含む3安打1打点を挙げて阪神の選手では2006年の藤本敦士以来7年ぶりとなるMVPに選出され[25]、さらに3戦目では2安打を放ち敢闘賞を獲得した[26]。しかし後半戦は徐々に成績を落とし、終盤には5番を外されたりスタメン落ちすることもあった。シーズンを通して140試合に出場したが、8月25日を最後に本塁打は1本も放てず、最終的に15本塁打に終わった。, 2014年には、ポジションの重なる長距離打者のマウロ・ゴメスが加入し、4番・一塁の座をめぐってゴメスとの競争になった。新井はゴメスの調整遅れを尻目に、春季キャンプで和田豊からMVPに選ばれた[27] が、シーズンに入るとゴメスが4番・一塁に定着し、新井は代打や三塁の控えに回った。5月10日の対読売ジャイアンツ戦(甲子園)で、7回裏に代打で適時打を放つと、9回裏に良太も代打で安打を記録したことによって「同一チーム・同一試合における代打での兄弟安打」を初めて達成[28]。同月21日の対オリックス・バファローズ戦(京セラドーム大阪)では、2点ビハインドの6回表二死一塁から、自身9年振り、阪神移籍後初めての代打本塁打を記録した[29]。シーズン通算では94試合出場で、打率.244・3本塁打・31打点の成績に終わり、ソフトバンクとの日本シリーズでは直前に腰痛を発症した影響で出場がなかった。シーズンオフには、規約を上回る大幅減俸通告を受け[30]、また翌年も代打中心になることが確実視されていたこともあって、新天地を求めて11月4日に球団に自由契約を申し入れ、了承された[31]。12月2日に、NPBから自由契約選手として公示[32]。, 阪神からの退団が報じられた後に、右打ちの長距離打者が補強ポイントだった広島が獲得に動いた[33]。2014年11月14日には、広島との契約合意が球団から発表されるとともに、入団記者会見が開かれた[34]。背番号は、プロ入り以来着用していた「25」ではなく、「28」に決まった[34][35]。自由契約前に阪神から提示されていた年俸は7,000万円で、広島との契約はそれをさらに下回る2,000万円だったが、新井はこの条件を即決で受け入れた[33]。, 2015年の開幕直前に右肘関節炎を発症して開幕ベンチスタートとなった。移籍の影響で罵声を受けるかもしれないと覚悟した開幕戦の初打席では大歓声。新井は後に「あれは一生忘れられない。今度は自分がファンを喜ばせたい。絶対に喜ばせる」と誓った[5]。右の代打起用がしばらく続いたが、4月7日の巨人戦(マツダスタジアム)で、復帰後初の「4番 一塁」でスタメン入りを果たしてからは、故障したヘスス・グスマンに代わって4番に定着した。5月9日の古巣阪神戦(甲子園)で、復帰後初本塁打を放ったが、その試合で左手中指を脱臼し、一時的にスタメンを外れることもあった。阪神時代の2008年以来のファン投票選出で、広島在籍中では初となったオールスターゲーム(セ・リーグの得票数第3位)では、2戦目(マツダスタジアム)に2013年の出場同様、敢闘賞を獲得した。9月2日の古巣阪神戦(甲子園)で、四回表二死一、三塁での7番・田中広輔の打席で三塁にいた新井は、一塁にいた鈴木誠也に対して投手・岩田稔が投げた牽制球が逸れた隙を突いて2000年9月13日の中日戦(ナゴヤドーム)以来15年ぶりのホームスチールを成功させた[36]。8月18日に3度目のFA権を取得した。後半戦から終盤戦にはスタメンでの起用が増えたため、最終的には規定打席にも到達し、打率.275と、出塁率.349をマークした。クライマックスシリーズ出場をかけた本拠地最終戦で味方打線は沈黙したが、新井は試合で唯一のヒットを放つなど気を吐いた。最終的にチームは敗戦するも、このヒットで自身2000本安打まで30を切り、復調をアピールした古巣復帰1年目のシーズンにおいて有終の美を飾った。なお、シーズン終了後の12月16日には、復帰時点から3倍増の推定年俸6,000万円で契約を更改。2016年から再び背番号「25」を着用することも発表した[37][38]。, 2016年4月26日の対ヤクルト3回戦(明治神宮野球場)の第2打席、ヤクルト先発の成瀬善久から左翼線への適時二塁打を放ち、史上47人目の通算2000安打を達成[39]。続いて8月2日に、史上42人目の通算300号本塁打を達成[40]。その後も連続出場による疲労を回避するため、先発を外れたり、試合終盤にベンチに下がるなどの配慮を受けながらも、シーズンを通して4番に座り、シーズン終盤まで打点リーグトップに立つなど好調を維持。チームの快進撃の原動力となった。8月7日の巨人戦でもレフトへサヨナラ打を放った。そしてチームは優勝マジックを1とした9月10日の巨人戦(東京ドーム)で逆転勝ちし、25年ぶりのリーグ優勝を果たす。試合終了直後に監督の緒方孝市、この年限りで引退し背番号が永久欠番にもなった黒田博樹と共にチームメイトから胴上げをされた[41]。チームはクライマックス・シリーズも優勝し、広島所属としては初めて日本シリーズにも進出。日本一はならなかったが、プロ18年目にして初めて歓喜の美酒を味わった。個人としては打点王はリーグ優勝決定後に休養とポストシーズンへの調整のために出場機会を少なくした影響で9月下旬に筒香嘉智にその座を譲り2011年以来の栄冠はならなかったものの、主要6部門は全て6年ぶりの打率.300(自己3位)、19本塁打(同5位)、100打点(同4位)、出塁率.370(同2位)、長打率.480(同3位)、OPS.850(同3位)の大台を達成する全盛期並みの成績を残し、本塁打王を獲得した2005年以来自身2度目のベストナインを受賞[42]。2015年に9年ぶりに同賞を受賞した福留孝介を抜くセ・リーグ史上最長ブランクでの受賞となった[42]。さらに同賞の表彰のため出席した11月28日のNPB AWARDS 2016にて、リーグMVPの受賞が発表・表彰された[43]。39歳での同賞の受賞は、2010年に38歳で受賞した和田一浩の記録を塗り替え、同賞受賞のセ・リーグ史上最年長記録を樹立した[44]。史上初めて2000安打・300本塁打・リーグ優勝・リーグMVPを同一シーズンに達成した、本人曰く「夢のようなシーズン」[45] となった。, 2017年、40歳となって迎えたこのシーズンは、前年より出場機会を減らしたが、要所で目覚ましい活躍を見せた。5月4日の中日ドラゴンズ戦(マツダスタジアム)では8回裏に代打で登場して三ツ間卓也から決勝の適時二塁打を放ち、これで安打を放った投手の数が517人となり、谷繁元信と並んで歴代最多タイ記録となる[46]。6月27日の横浜DeNAベイスターズ戦(横浜スタジアム)では7回表に代打で登場して逆転の2点適時二塁打を放ち史上28人目の通算3500塁打を達成[47]。7月7日の東京ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)では9回表に代打で登場しバックスクリーンへ逆転の3点本塁打を放った[48]。7月19日の阪神タイガース戦(阪神甲子園球場)では8回に決勝の適時二塁打を放ち、この試合で通算2284試合出場となり、球団OBの山本浩二に並んだ[49]。チームは9月18日の阪神戦に勝利し球団史上37年ぶりのリーグ連覇を果たすが、クライマックスシリーズでペナントレース3位のDeNAにアドバンテージを含む2勝3敗と追い込まれた。迎えた10月24日の第5戦(マツダスタジアム)では4番でスタメン出場し6回裏に本塁打を放ったが、チームはこの試合に敗れて日本シリーズ進出を逃した。しかし試合後、新井は2018年シーズンも現役を続行する意思を示した[50]。, 2018年、41歳で迎えるシーズン開幕直前左ふくらはぎを痛め、開幕は14年ぶりの二軍となった。6月、『週刊ベースボールマガジン』の創刊60周年記念としてカープの歴史が特集された際、現役との別れを匂わせるコメントが掲載された[5]。9月5日、シーズン限りでの現役引退を表明。広島市のマツダスタジアム内で記者会見を開き「若手が力をつけているカープの今後を考え、今年が良いのではないかと考えた。大歓声をもらえる中で(ファンを)喜ばせてあげることができていない」などと涙ながらに理由を語った[51]。現役最終出場試合は11月3日にマツダスタジアムで行われたSMBC日本シリーズ2018(広島対ソフトバンク)第6戦で、8回裏に代打で登場してショートゴロ。その後9回表には一塁の守備に就いた[52]。, 引退直後の2018年11月5日、中国新聞に新井を讃える全面広告が2ページにわたり掲載された。表面は「新井ブレーキ」「絶好球見逃す」「流れを変えた空振り」など新井が酷評されている記事のスクラップ画像となっているが、裏面をめくるとガッツポーズをする新井の姿に「結局、新井は凄かった。」「広告主 黒田博樹」という文言が添えられたものとなっている[53][54]。この広告は話題を呼び、第39回新聞広告賞の新聞広告大賞に選ばれた[55]。, 2019年からは、TBSテレビ・中国放送の野球解説者、スポーツニッポン・デイリースポーツの野球評論家を務める。中国放送の解説者としては、テレビ中継で「RCCスペシャル解説者」、ラジオ中継で「RCC野球解説者」と紹介。毎日放送が制作する阪神戦のテレビ中継にも、金本などとのダブル解説扱いで、ゲスト解説者(TBS派遣)として随時出演する他、在広局中継にもゲスト扱いで出演する。但し、放送メディアにおいては契約上TBS系の専属扱いであり、J SPORTS等への中継では(中国放送からの裏送りを含め)必ず別立て差し替えが行われる[56][57][58]。, 左足を高く上げる打撃フォームが特徴。2004年まではグリップの位置が低く、胸の前で構えていた。2003年に極度の打撃不振に陥って以降フォーム作りに四苦八苦していたが、2005年にグリップの位置を上げ、顔の後ろで構える形に改造したことが見事にはまって、バットがスムーズに出るようになって確実性が増し、打率・本塁打・打点の3部門全てでキャリアハイの成績を残し、自身初の打撃タイトルとなる本塁打王(43本)を獲得した。ただし、シーズン30本塁打以上を記録したのはこの年のみである。また、シーズン100打点以上を2006年、2007年の2年連続を含む4回記録している[59]。阪神移籍後は腰痛の影響もあって、打撃フォームをオープンスタンスにするなどバッティングの形を変更し、本塁打数は減少した[60]。, 幼少期から広島の大ファンであり、パジャマはカープのユニフォームをあしらったものであった[5]。, 温厚で優しい性格であり、大学の1年先輩である高橋尚成は、大学時代の新井を「打てないし、守れないが、足はそこそこ速く、素直で礼儀正しいので先輩の受けはとても良かった」と話している。若手のころはとにかく先輩からオモチャにされ、広島時代の金本が本塁打を打った際には、金本は他の選手とはハイタッチをするが新井だけには張り手を喰らわせたり、選手会ゴルフの始球式で打球方向に立たされたりするなどのエピソードが残っている。「スポーツニッポン」の新井へのインタビューによると、金本の趣味が「新井イジリ」である故に阪神時代ホテルの部屋での金本による「ピンポンダッシュ」の被害者であった事を告白している。しかも金本も毎回鳴らし方を変えてくるという手の込みようであったため新井も「シカト不能だった」との事。金本が引退した後の2年間は、入れ替わりにMLBから国内復帰した西岡剛主導で先輩であるにもかかわらずチームメイトにいじられることが多かった(いずれも阪神在籍当時)[62]。, 阪神移籍後はファンの間でもいじられキャラとして定着し、名前と移籍時の発言をもじった「辛いさん」というあだ名が浸透した。更に2003年、2009年、2011年にセ・リーグ最多併殺打を記録したことから、新井の打つ併殺打は「辛いさん」と「ゲッツー(併殺打)」をもじった「ツラゲ」と呼ばれていた[63]。, 現役時代は、長年にわたって自主トレーニングのメニューに護摩行を取り入れていた[64]。現役引退後の2019年にも、「自分の心を引き締めたかった」という理由で、野球解説者として活動していた夏場に護摩行へ臨んだという[65]。, 在日韓国人であったが、日本に帰化している。帰化前の本名は朴貴浩(パク・クィホ、박귀호)[66], この他にも、阪神での現役時代から、年に1回『痛快!明石家電視台』(毎日放送)に単独(または良太とのコンビ)でゲスト出演。同局で制作する『戦え!スポーツ内閣』でも、2019年4月17日に「誰からも愛された男・新井貴浩スペシャル」を放送した。. 埼玉西武ライオンズ (2001 - 2012) そのため、各チームに必ず選手会長がいないなければ … 東京巨人軍 早稲田大学 常磐炭鉱 デトロイト・タイガース (1986) フィラデルフィア・フィリーズ (1977 - 1978) 読売ジャイアンツ (2018 - ), 兵庫県立伊丹北高等学校

読売ジャイアンツ (2019 - ). 読売ジャイアンツ (1951 - 1954) 西武ライオンズ (1985) 東急フライヤーズ/急映フライヤーズ (1947 - 1948) 西武ライオンズ (1990 - 1992), ニューヨーク・メッツ (1977, 1979 - 1980)

丸佳浩(5年連続リーグ優勝経験者)←これ凄いな; 12球団のチーム本塁打+盗塁 【CS】ロッテ安田が先制の2ランHR 【確定】12球団の新外国人選手の成績wywywywywy; 都道府県別歴代プロ野球選手ベスト5を決めた. 読売ジャイアンツ (2008 - 2011) 読売ジャイアンツ (1960 - 1962)

ニューヨーク・ヤンキース (2015) 杵島炭鉱 横浜DeNAベイスターズ (2012 - 2013) 読売ジャイアンツ (2014 - 2015) 東京倶楽部 選手会長2年目の05年はサードにポジションを移して打順も5番となり、藤村富美男選手の持っていたシーズン142打点の球団記録を上回り、プロ野球全体でも 歴代3位となる147打点 を挙げ、勝負強い打撃で2年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献しました。 読売ジャイアンツ (1964 - 1974), テキサスA&M大学 シカゴ・カブス (1978), アリゾナ州立大学 フロリダ・マーリンズ (2005) ボルチモア・オリオールズ (1965 - 1972) コロラド・ロッキーズ (2011) 大洋ホエールズ (1955), 【登録名】1938年-1948年:楠 安夫/1949年-1953年:楠 協郎/1954年-1955年:楠 拡応, 長崎市立長崎商業学校中退 大洋軍 (1941 - 1942) 広島アスリートマガジン2016年6月号 新井貴浩 2000安打達成! 大日本東京野球倶楽部 (1934 - 1935) 群馬ダイヤモンドペガサス (2014), シアトル・マリナーズ (2004 - 2010) ニューヨーク・ヤンキース (1982) 東映フライヤーズ (1964), 福島県立内郷高等学校 カープ愛に包まれた男 新井貴浩 2000安打への軌跡(2016年7月8日、発売元: 新井貴浩 2000安打達成記念DVD 〜ど根性でつかんだ栄光! 原選手の後を受け、90年に 岡崎郁選手 が就任し、4年間務めた岡崎選手は就任1年目にゴールデングラブ賞を受賞、巨人選手会長退任後の94年に 「一般社団法人日本プロ野球選手会」の5代目の理事長 に就任して活動しました。 近鉄パールス (1950 - 1951), 旧制香川県立高松商業学校 現在、読売ジャイアンツの炭谷銀仁朗選手が会長を務めております。, 一般社団法人(※平成24年11月1日に、「社団法人」から「一般社団法人」に移行)については野球に関する公益事業ということで、野球教室を全国各地で行うなど、野球全体の発展に寄与するための活動を行っております。 日本プロ野球選手会は労働組合及び一般社団法人という二つの形態を取っております。 労働組合については純粋に労働者としての選手による組合であり、雇用者である球団との間での待遇改善交渉などを … 就任:1985年11月5日 前年成績(1984年):130試合、打率.294、31本塁打、83打点、4盗塁 就任年成績(1985年):125試合、打率.294、18本塁打、62打点、7盗塁 関連ページ:100本以上のアーチをかけた男たち⑯ - 野球の記録がここにある