Copyright (C) 2020 歴史スタイル All Rights Reserved. 義経の快進撃はここまでなのです!   兄への敵意を感じた頼朝は、部下の土佐坊昌峻(とさのぼうしょうしゅん)に追討命令を出し、義経は追われる身となります。  

でも、彼女は吉野の山で、京に戻るように命じられました。   郷御前、若いですね。   余談ですが、西行法師が、秀衡と遠縁で仲がよかったこともあり、ちょうどこの頃、秀衡のもとを訪れているんですよ。 元暦2年(1185年)2月、新たな軍を編成した義経は、暴風雨の中を少数の船で出撃。通常3日かかる距離を数時間で到着し、讃岐国の瀬戸内海沿いにある平氏の拠点屋島を奇襲し、山や民家を焼き払い、大軍に見せかける作戦で平氏を敗走させた(屋島の戦い)。, 範頼も九州へ渡ることに成功し、最後の拠点である長門国彦島に拠る平氏の背後を遮断した。義経は水軍を編成して彦島に向かい、3月24日(西暦4月)の壇ノ浦の戦いで勝利して、ついに平氏を滅ぼした[注釈 13]。   源義経 (みなもと-の-よしつね)は、平安時代末期の武将で、 鎌倉 幕府の初代将軍になった 源頼朝 の弟になります。 ただし、源義経は9男(九郎義経)で、母は側室・ 常盤御前 でした。 幼いころは牛若丸(うしわかまる)と呼ばれ、わんぱく牛若丸と言う表現も使われることがあります。

蕨姫/wikipedia. 『源義経』(みなもとのよしつね)は、1966年1月2日から同年12月25日にかけてNHKで放送された4作目の大河ドラマ。, 源平合戦において源氏を率いた源義経の生涯を描いた。原作は村上元三の歴史小説『源義経』。脚本も村上が担当しているが、この場合は自らの文学作品を脚色しているため、オリジナル作品というわけではない[1]。生まれ落ちて間もなくの、母常磐や兄たちとの雪中の逃避行から、衣川館で自害し、兄頼朝が奥州を征服するまでを描く。, 源義経を演じた尾上菊之助は史上最年少での主演(放送開始時23歳)。なお、この記録を更新したのは奇しくも39年後の大河ドラマ『義経』で源義経を演じた滝沢秀明である(放送開始時22歳)[2]。, 前年放送の『太閤記』で大きな反響を呼んだ緒形拳が本作でも続けて起用され、武蔵坊弁慶役で出演した。『太閤記』に続いて2作連続で演出を務める吉田直哉は、その多忙さから本作に関することは全てプロデューサーの合川明に任せたが、唯一、弁慶役に緒形を起用することだけは注文をつけた。緒形は、『太閤記』の主演に抜擢されたとはいえまだ新人の部類であり、その新人を1年で放り出すのは無責任であるという吉田の親心と、前年に秀吉を演じた男が弁慶を演じることで、フィクションであることを強調したかったという狙いがあった。原作・脚本の村上元三は市村竹之丞、プロデューサーの合川明は三國連太郎をそれぞれ推薦したが、最終的には、現場を預かる吉田の意思を尊重するということで合川が村上を説得し、緒形に決定した。なお、市村は本作では平知盛役で出演している。, 音楽を担当した武満徹にとって、琵琶の使用は1962年の映画『切腹』に次いで最初期の経験であった。, 琵琶の演奏は鶴田錦史が担当。鶴田錦史は武満と共同作業で琵琶の新しい奏法を次々と開発し、この『源義経』および映画『怪談』(1964年東宝映画、小林正樹監督)の『耳なし芳一』(同じく平家物語による)をきっかけとして、琵琶曲『壇ノ浦』を作曲した。現代邦楽の琵琶における重要なレパートリーとなっている。, また、この共同作業により琵琶の楽器法を学んだ武満は、映画『暗殺』(1964年松竹映画、篠田正浩監督)、さらに映画『怪談』、そして現代音楽の純音楽作品として『エクリプス』を経て『ノヴェンバー・ステップス』の作曲へと繋がってゆく。劇伴をきっかけに邦楽・洋楽の二人の作曲家がそれぞれ大作を生み出した稀有な例である。, 本作のオープニングテーマ曲は、CDに収録されているものに比べ、後述の第33回に放送された時のものは後半の旋律が異なる他、CDより曲自体が短くなっている。また、総集編のオープニングはさらに短く、クレジットはスタッフのみである(キャストのクレジットは本編後に流れ、オープニングとは別の曲が使われている)。, 本作の収録に使用されていた2インチVTRは非常に高価で長期保管にも不向きな大型サイズだったため、放送終了後に他番組の収録用に使い回されるされるのが一般的であったことから、本作のマスターテープも他作品への転用に伴う上書き消去によって大半の映像が失われてしまった。通常放送回は第1話・第33話・最終回しか残っていないとされるが、これでも1960年代の大河ドラマ作品の中では一番現存映像が多い。映像資料用として保管していたと思われる。また、第3回の五条大橋でのシーンの撮影風景を収録した映像がカラーで現存している。, 総集編が完全な形で現存している最古の作品であると同時に、モノクロ作品では唯一総集編のVHS及びDVDが市販されている作品である。前述の現存している通常放送回は映像ソフト化されていないが、2009年2月及び同年11月から12月に掛けて『時代劇専門チャンネル』で放送された。, http://www.47news.jp/CN/200308/CN2003080601000347.html, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=源義経_(NHK大河ドラマ)&oldid=78220775, 第三十一話は19時30分から特別番組「改造内閣にのぞむ」を放送したため30分繰り下げ。.  

御曹子(義経。源義朝の九男。血筋正しい家柄の子ということから御曹子と通称された)のその夜の装束は、白い袷(あわせ。裏表別の布を合わせて作った衣服)を交差させて、精好の大口に浅黄(あさぎ。 義経はその後、平氏追討のために西国に出陣することが予定されていたが8月6日、三日平氏の乱が勃発したために出陣が不可能となる。そのため西国への出陣は範頼があたることになる[注釈 11]。 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2020 All Rights Reserved.             御曹子(義経。源義朝の九男。血筋正しい家柄の子ということから御曹子と通称された)のその夜の装束は、白い袷(あわせ。裏表別の布を合わせて作った衣服)を交差させて、精好の大口に浅黄(あさぎ。

しかし彼女、実は義経の本命=正室ではありません。正室は他の人で、静御前はあくまで二番手という位置でした。, 現代だったら泥沼の予感がひしひしとしますが、そこは当時の結婚観で当たり前のことですから、特に問題はなかったようです。, それでは、静御前と義経、そして今はすっかり忘れられてしまった正室の存在も振り返ってみましょう。, 母の磯禅師(いそのぜんじ)という人が京都で公家を相手に白拍子を斡旋したりしていたそうなので、都の近辺で暮らしていたと思われます。, 白拍子というのは男性の服装である水干(すいかん)や烏帽子、刀を身につけて舞を披露する仕事で、遊女としての側面もありました。, が、出入り先が公家や皇族の屋敷だったため、自然と教養が身についていき、品の良い人も多かったようです。, 磯禅師も自身が白拍子として名を上げていたからこそ、斡旋という難しい役目ができたのでしょう。, そして静御前もまた、母と同じく白拍子としてあちこちの屋敷へ行っていたと思われます。詳しい経緯は不明ですが、その後、京へ滞在中の義経と知り合う機会があり、愛されて妾になりました。, 嫁いだ時期が、源頼朝とのイザコザが置き始めた頃だったので、「スパイだったのでは?」という見方もあります。, しかし、郷御前の母親が頼朝の息子・源頼家の乳母だった縁で、前々から結婚自体は決まっていたようです。, この辺からすると、頼朝も始めのうちは弟を手荒な手段で始末するつもりはなかったのかもしれませんね。, が、静御前は桜の名所・奈良の吉野山で義経から「お前は京に戻れ」と言われ、別れることになります。京都から奈良までは同行させたんですね。, 郷御前はそのままついていくことになりますが、ここで話が大きく分かれるので、まずは静御前に注目してみましょう。, 義経は静御前に対し、当面の足しになるよう、お金と護衛兼世話役の男達をつけてくれました。, が、そいつらが静御前からお金を奪って逃げるというサイテーなことが起きます。なぜ、もうちょっとマトモな人を選べなかったのか、と……。, そんなわけで静御前は初冬の寒い山の中を一人でさまよい、運よく頼朝の命で義経一行を探していた吉野山の僧兵に保護されました。, 多少の詰問はされたようですが、僧兵達は静御前に同情し、鎌倉へ差し出す前にいろいろと便宜を図ってくれたそうです。, そして半月後、まず京都にいた北条時政(政子の父親)に預けられ、そこから鎌倉へいくことになります。, 京都の時政と鎌倉の頼朝との間でいくらか手紙の往来があり、静御前がその母・磯禅師と共に鎌倉へ着いたのは、翌年3月始めのことでした。, このとき静御前は義経の子供を身ごもっていたらしいので、長旅は相当きつかったでしょうね。, 翌4月には「舞を披露せよ」と言われているのですから、ここで当てつけに自害していてもおかしくないほどの扱いです。, 静御前は再三体調不良などを理由に断っていたのですが、北条政子が「京一番の名手の舞を見られないのは惜しい。頼朝様ではなく八幡宮に捧げるために舞ってくれませんか」とやんわりゴネたため、断りきれなくなりました。, 頼朝の立場してみれば、やっと平家を倒して政権を作ろうとしているところに余計な茶々を入れられ、面倒を増やされた相手ですからね。, 「不本意に別れることになった夫を慕う気持ち、私にはよくわかります。私たちだって、昔は似たようなものだったじゃありませんか」, 頼朝は流罪の身から出兵して基盤が不安定でしたし、その帰りを待っていた期間が長かった政子としてみれば、他人事には思えなかったのでしょう。, 頼朝自身がかつて「幼いから助けてやって欲しい」と言われて助けられた身ですから、もし情けをかければいずれ牙を剥かれると考えたのでしょう。, 一応、このときも政子は静御前に味方してくれたそうなのですが、さすがに叶いませんでした。, 静御前の消息がわかるのは、出産から約二ヵ月後、母と共に京都へ帰ったところまでです。, そこまでは鎌倉幕府の公式記録・吾妻鏡に書かれています。だから政子寄りの記述多いんだろう、とも言われていますが……。, その後はどこぞで入水したとか、もう一度義経を追おうとして客死したなどさまざまな説があり、定説と呼べるものはないようです。, いずれにせよ、母である磯禅師は悲しんだでしょうね……。彼女にしてみたら、娘にも孫にも先立たれてしまったわけですから。, 逃亡劇が始まった直後の文治二年(1186年)に娘を産んでいたそうなので、産後の辛い時期に長旅をしていた可能性が高いということになりますね。, それほどタフな女性だったからこそ、義経も連れて行こうとしたのでしょうか。ただ単に、出身が関東であることから返すアテがなく、哀れんだだけかもしれませんけども。, しかし、義経が頼みにしていた奥州藤原氏に裏切られて襲撃されると、郷御前も幼い娘も無事には済みませんでした。, 平泉町金鶏山麓にある郷御前と子どもの墓/photo by usiwakamaru wikipediaより引用, 二人とも義経が自ら手にかけたとされているので、敵に殺されたり連れて行かれるよりはマシだったかもしれませんが……何ともいえない後味の悪さですね。, ちなみに義経にはもう一人、平清盛の義弟・平時忠の娘である蕨姫(わらびひめ)という女性が嫁いでいたともいわれています。, が、時忠が命惜しさに義経へ差し出したというサイテーな経緯だったためか、ロクに記録が残っていません。, しかも「適齢期の娘はまだ使い道があるから、行き遅れてたアイツでもやっとけ」みたいな感じだったらしく、父親からも夫からも大切にされたとは言えません。(´;ω;`), 【参考】

結婚生活どころじゃありませんね!     源 義経 (みなもとの よしつね) 1159年~1189年 .

    もともとある程度の地位のある娘なので、頼朝と義経が不仲になった時点で、実家に帰ることもできたと思いますが、彼女は最期まで義経と共に生きました。 また「弓流」の段で、海に落とした自分の弓を拾った逸話の際に「弱い弓」と自ら述べるなど、肉体的には非力である描写がされている。, 『義経記』では、楊貴妃や松浦佐用姫にたとえられ、女と見まごうような美貌と書かれている。その一方で『平家物語』をそのまま引用したと思われる矛盾した記述もある。『源平盛衰記』では「色白で背が低く、容貌優美で物腰も優雅である」という記述の後に、『平家物語』と同じく「木曾義仲より都なれしているが、平家の選び屑にも及ばない」と続く。『平治物語』の「牛若奥州下りの事」の章段では、義経と対面した藤原秀衡の台詞として「みめよき冠者どのなれば、姫を持っている者は婿にも取りましょう」と述べている[注釈 27]。, 江戸時代には猿楽(現能)や歌舞伎の題材として義経物語が「義経物」と呼ばれる分野にまで成長し、人々の人気を博したが、そこでの義経は容貌を美化され、美男子の御曹司義経の印象が定着していった。, 講談などで語られるいわゆる「源義経19臣」は、武蔵坊弁慶、常陸坊海尊、佐藤継信、佐藤忠信、鎌田藤太、鎌田藤次、伊勢三郎、駿河次郎、亀井六郎、片岡八郎、鈴木三郎、熊井太郎、鷲尾三郎、御厨喜三太、江田源次、江田源三、堀弥太郎、赤井十郎、黒井五郎。[29], 優れた軍才を持ちながら非業の死に終わった義経の生涯は、人々の同情を呼び、このような心情を指して判官贔屓というようになった。また、義経の生涯は英雄視されて語られるようになり、次第に架空の物語や伝説が次々と付加され、史実とは大きくかけ離れた義経像が形成された。, 義経伝説の中でも特に有名な武蔵坊弁慶との堀川小路から清水観音での出会い。(後世の作品では五条大橋)、陰陽師・鬼一法眼の娘と通じて伝家の兵書『六韜』『三略』を盗み出して学んだ話、衣川の戦いでの弁慶の立ち往生伝説などは、死後200年後の室町時代初期の頃に成立したといわれる『義経記』を通じて世上に広まった物語である。特に『六韜』のうち「虎巻」を学んだことが後の治承・寿永の乱での勝利に繋がったと言われ、ここから成功のための必読書を「虎の巻」と呼ぶようになった。, また後代には、様々な文物が由緒の古さを飾るために義経の名を借りるようになった。例えば、義経や彼の武術の師匠とされる鬼一法眼から伝わったとされる武術流派が存在する。, 後世の人々の判官贔屓の心情は、義経は衣川で死んでおらず、奥州からさらに北に逃げたのだという不死伝説を生み出した。さらに、この伝説に基づいて、実際に義経は北方すなわち蝦夷地に逃れたとする主張を、「義経北方(北行)伝説」と呼んでいる[30]。そして寛政11年(1799年)に、この伝説に基づき、蝦夷地のピラトリ(現・北海道沙流郡平取町)に義経神社が創建された。しかし、「義経北方(北行)伝説」を証明する考古学上の確証は、現在に至るまで一切提示されておらず、その伝説を信じたいとする域を出ていない。, 「義経北方(北行)伝説」の原型となった話は、室町時代の御伽草子に見られる『御曹子島渡』説話であると考えられている。これは、頼朝挙兵以前の青年時代の義経が、当時「渡島(わたりしま)」と呼ばれていた北海道に渡ってさまざまな怪異を体験するという物語である。未知なる地への冒険譚が、庶民の夢として投影されているのである。このような説話が、のちに語り手たちの蝦夷地のアイヌに対する知識が深まるにつれて、衣川で難を逃れた義経が蝦夷地に渡ってアイヌの王となった、という伝説に転化したと考えられる。またアイヌの人文神であるオキクルミは義経、従者のサマイクルは弁慶であるとして、アイヌの同化政策にも利用された。またシャクシャインは義経の後裔であるとする(荒唐無稽の)説もあった。これに基づき、中川郡の本別町には義経山や、弁慶洞と呼ばれる義経や弁慶らが一冬を過ごしたとされる洞窟が存在する。, またこれらの伝説を強化したと思われる記述として、江戸幕府の儒家・林羅山(はやしらざん)の『続本朝通鑑』がある。記述は「或日、衣河之役義経不死、逃到蝦夷島其遺種存干今(現訳~義経は衣川の戦で死なず、逃れ蝦夷島に至りその子孫を残す)」とある。, この北行伝説の延長として幕末以降の近代に登場したのが、義経が蝦夷地から海を越えて大陸へ渡り、成吉思汗(ジンギスカン)になったとする「義経=ジンギスカン説」である。, この伝説の萌芽もやはり日本人の目が北方に向き始めた江戸時代にある。清の乾隆帝の御文の中に「朕の先祖の姓は源、名は義経という。その祖は清和から出たので国号を清としたのだ」と書いてあった、あるいは12世紀に栄えた金の将軍に源義経というものがいたという噂が流布している。これらの噂は、江戸時代初期に沢田源内が発行した『金史別本』の日本語訳が発端である[注釈 28]。, このように江戸時代に既に存在した義経が大陸渡航し女真人(満州人)になったという風説から、明治期になると義経がチンギス・カンになったという説が唱えられるようになった。明治に入り、これを記したシーボルトの著書『日本』を留学先のロンドンで読んだ末松謙澄はケンブリッジ大学の卒業論文で「大征服者成吉思汗は日本の英雄源義経と同一人物なり」という論文を書き、『義経再興記』(明治史学会雑誌)として日本で和訳出版されブームとなる。, 大正に入り、アメリカに学び牧師となっていた小谷部全一郎は、北海道に移住してアイヌ問題に取り組んでいたが、アイヌの人々が信仰する文化の神・オキクルミの正体は義経であるという話を聞き、義経北行伝説の真相を明かすために大陸に渡って満州・モンゴルを旅行した。彼はこの調査で義経がチンギス・カンであったことを確信し、大正13年(1924年)に著書『成吉思汗ハ源義經也』を出版した。この本は判官贔屓の民衆の心を掴んで大ベストセラーとなる。現代の日本で義経=ジンギスカン説が知られているのは、この本がベストセラーになったことによるものである。, こうしたジンギスカン説は明治の学界から入夷伝説を含めて徹底的に否定され、アカデミズムの世界でまともに取り上げられることはなかったが、学説を越えた伝説として根強く残り、同書は昭和初期を通じて増刷が重ねられ、また増補が出版された。この本が受け入れられた背景として、日本人の判官贔屓の心情だけではなく、かつての入夷伝説の形成が江戸期における蝦夷地への関心と表裏であったように、領土拡大、大陸進出に突き進んでいた当時の日本社会の風潮があった。, 現在では後年の研究の結果や、チンギス・カンのおおよその生年も父親の名前も「元朝秘史」などからはっきりと判っていることから、源義経=チンギス・カン説は学術的には完全に否定された説である。, 下野国の御家人、中村朝定は義経の遺児であったという伝承がある。栃木県真岡市にある遍照寺 (真岡市)の古寺誌によると「藤原秀衡の命を受けた常陸坊海尊は源義経の子経若常陸入道念西(伊達朝宗)に託し、後に朝定と名乗った」[31][32]との伝承がある。また、青森県弘前市新寺町の圓明寺(円明寺)の縁起に「千歳丸のちの経若丸は義経の子であり、千歳丸を常陸坊海尊に託し、常陸介念西に預け後に養子にした。その後は行方知れず」[33]との伝承もある。朝定の一族中村氏は現在まで存続している。, また別の伝承によれば、源義経と佐藤基治の娘である浪の戸との間に生まれた安居丸は、母方の姓を名乗って佐藤基信と称し、その家系は基国―国久―信久―基久と続き、基信の玄孫である基久は南朝方として奮戦し、正平3年(1372年)に伊予で戦死したという。[要出典], 上横手雅敬は鎌倉幕府編纂である『吾妻鏡』に疑問を呈し、義経の無断任官問題が老獪な後白河法皇が義経を利用して頼朝との離反を計り、義経がそれに乗せられた結果であるとする通説を批判している[34][35] 。, 元木泰雄は従来、概ねその記述を信用できると考えられていた『吾妻鏡』について近年著しくすすんだ史料批判と、『玉葉』など同時代の史料を丹念に突き合わせる作業によって、新しい義経像を提示している[37]。, 義経に対する人気は高く、代表的な軍記物語である『義経記』が死後200年経ってから編纂されるほどであり、義経もしくは主従を題材とした「義経物」「判官物」と呼ばれる一ジャンルを築いた[3]。謡曲では30余曲、幸若舞では19曲の「判官物」がある[38]。またあまりに人気があったために義経と関係ない演目でも「現れ出たる義経公」という語りとともに義経が登場し、「さしたる用もなかりせば」との語りとともにただ引っ込むという演出も行われていた[3]。, 義経の少年期を記した「牛若奥州下りの事」の部分は金刀比羅宮本にはなく、学習院本、京師本による。, 軍記物や伝説によると11歳(15歳説も)の時、自分の出生を知ると、僧になることを拒否して, 『吾妻鏡』では「弱冠一人」で宿所を訪れたとあり、『源平盛衰記』では20騎、『平治物語』では100騎を率いていたとする。, なお『吾妻鏡』によると義経の西国出陣の停止は次のような理由になっている。頼朝の推挙を得ずに後白河によって, 従来はこの出陣は『吾妻鏡』元暦2年(1185年)4月21日条、5月5日条の記載に基づき頼朝の命令によって行なわれたとみなされていた。しかし下記のことからこれに疑義を示す見解が強まっている。『吾妻鏡』元暦2年正月6日条には、範頼に宛てた同日付の頼朝書状が記載されている。その内容は性急な攻撃を控え、天皇・神器の安全な確保を最優先にするよう念を押したものだった。一方、義経が出陣したのは頼朝書状が作成された4日後であり(『吉記』『百錬抄』正月10日条)、屋島攻撃による早期決着も頼朝書状に記された長期戦構想と明らかに矛盾する。吉田経房が「郎従(土肥実平・梶原景時)が追討に向かっても成果が挙がらず、範頼を投入しても情勢が変わっていない」と追討の長期化に懸念を抱き「義経を派遣して雌雄を決するべきだ」と主張していることから考えると、屋島攻撃は義経の「自専」であり、平氏の反撃を恐れた院周辺が後押しした可能性が高い。『平家物語』でも義経は自らを「一院の御使」と名乗り、伊勢義盛も「院宣をうけ給はって」と述べている。これらのことから、頼朝の命令で義経が出陣したとするのは、平氏滅亡後に生み出された虚構であるとする見解もあ, 「判官どのは君(頼朝)の代官として、その威光によって遣わされた御家人を従え、大勢の力によって合戦に勝利したのにもかかわらず、自分一人の手柄であるかのように考えている。平家を討伐した後は常日頃の様子を超えて猛々しく、従っている兵達はどんな憂き目にあうかと薄氷を踏む思いであり、皆真実に和順する気持ちはありません。自分は君の厳命を承っているものですから、判官殿の非違を見るごとに関東の御気色に違うのではないかと諫めようとすると、かえって仇となり、ややもすれば刑を受けるほどであります。幸い合戦も勝利したことなので早く関東へ帰りたいと思います」, 近年の研究では、義経が平氏追討を外されたのは京都の治安維持のためであり、『吾妻鏡』が前年7月の検非違使任官が頼朝との対立の原因としているのは誤りであるとの見方がされている, 頼朝は範頼に充てた書状で平氏が三条高倉宮(以仁王)、木曽義仲が「やまの宮・鳥羽の四宮(実際には後白河法皇皇子の円恵法親王)」を殺害したこと(すなわち皇親の殺害行為)が没落につながったと捉えて安徳天皇の保護を厳命(『吾妻鏡』所収「文治元年正月六日源頼朝書状」)し、剣璽の確保についても同様の命令(『吾妻鏡』文治元年3月14日条)を出しており、義経にも同様の命令が出されたとみられている。にもかかわらず、義経は安徳天皇を保護できず、さらに行方不明の宝剣に関しても宇佐八幡宮に発見の祈願を行った(『延慶本平家物語』)だけで積極的に捜索しなかった。なお、頼朝および朝廷は範頼や佐伯景弘らに命じて以後2年近くも海人を用いた宝剣捜索を行ったこと(『吾妻鏡』文治元年5月5日条および文治3年6月3日条、『玉葉』文治2年3月4日条および文治3年9月27日条)が知られている, なお、『延慶本平家物語』によれば、義経は一旦鎌倉に入って頼朝と対面した後都に戻ったとされている。また、現存する「腰越状」と伝えられるものへの真偽を疑う説もある, 義経が院宣を最初に申請したのは、『吾妻鏡』では10月13日、『玉葉』では同16日となっていて、17日の土佐坊による襲撃よりも前のことになっている。これに関して河内祥輔は義経が事前に土佐坊の襲撃の情報を入手して院宣を申請し、17日の襲撃では最初から迎撃の態勢を取っていたとする, 義経が泰衡によって討たれ、その首級が鎌倉に届けられることになった際の使者を、『吾妻鏡』では「新田冠者高平」と伝えているが、この人物は泰衡の四弟(秀衡の四男), 盛嗣は屋島合戦の矢合わせでも、義経を「みなしごの稚児、金商人の従者になった小冠者」と罵っている。, 同書では母親の常盤は絶世の美女とされており(『平治物語』『義経記』)、容姿が重視されて源義朝の側室となった。父親の義朝については、面識のあった佐藤兄弟の母が義経と対面した際、「こかうの殿をおさなめによきおとこかなと思ひたてまつりしが、さうあしくこそおはすれども、その御子かとおぼゆる(亡き左馬頭殿(義朝)は幼心にもよい男だと拝見しましたが、あなたは父上に比べて見劣りするけれども、そのお子かと思われます)」と述べている(『平治物語』京師本)。, 『金史別本』は金王朝の正史である『金史』の外伝とされるが、実際にはそのような書物は中国には存在しない。また沢田源内は偽家系図作りの名人であり、現代では『金史別本』は偽書であるとされる。, 甲冑の奉納に関しては五味文彦・櫻井陽子編『平家物語図典』小学館、2005年、p.11, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=源義経&oldid=80292796, 『吾妻鏡』治承4年(1180年)10月21日条によると、奥州にいた義経が頼朝の挙兵を知って急ぎ頼朝に合流しようとした際、藤原秀衡は義経を強く引き留める。しかし義経は密かに館を逃れ出て旅立ったので、秀衡は惜しみながらも留めることを諦め、追って佐藤兄弟を義経の許に送った。, 同じく『吾妻鏡』によると、養和元年(1181年)7月20日、鶴岡若宮宝殿上棟式典で、頼朝は義経に大工に賜る馬を引くよう命じた。義経が「ちょうど下手を引く者がいないから(自分の身分に釣り合う者がいない)」と言って断ると、頼朝は「, 『玉葉』・『吾妻鏡』によると、頼朝と対立した義経は文治元年(1185年)10月11日と13日に後白河院の元を訪れ、「頼朝が無実の叔父を誅しようとしたので、行家もついに謀反を企てた。自分は何とか制止しようとしたが、どうしても承諾せず、だから義経も同意してしまった。その理由は、自分は頼朝の代官として命を懸けて再三大功を立てたにもかかわらず、頼朝は特に賞するどころか自分の領地に地頭を送って国務を妨害した上、領地をことごとく没収してしまった。今や生きる望みもない。しかも自分を殺そうとする確報がある。どうせ難を逃れられないなら、, 追いつめられた義経が平氏や木曾義仲のように狼藉を働くのではと都中が大騒ぎになったが、義経は11月2日に四国・九州の荘園支配の権限を与える院宣を得ると、3日早朝に院に使者をたて「鎌倉の譴責を逃れるため、.