細川藤孝(細川幽斎)は生涯、側室・妾を持たず、その後も沼田麝香との間に細川興元、細川伊也、細川幸隆、於千、細川孝之、加賀子、小栗らが生まれているが、この婚儀は細川藤孝が28歳の時である為、沼田麝香は後妻(継室)と言う可能性もある。, 1565年の永禄の変で、将軍・足利義輝が三好三人衆や松永久秀に暗殺された際には、勝龍寺城(青龍寺城)にいた為、難を逃れ、兄・三淵藤英らと共に幽閉された足利義輝の弟・一乗院覚慶(後に還俗して足利義昭)を救出し、近江矢島にて還俗させた。 細川藤孝(細川幽斎)の生母は、三淵晴員の後妻である智慶院(清原宣賢の娘)。 三淵 藤英(みつぶち ふじひで)は、戦国時代の武将、室町幕府末期の幕臣(奉公衆)。異母弟に細川藤孝。初名は藤之、のち藤英。「藤」の字は将軍・足利義藤(後の義輝)より偏諱を賜ったもの。, 永禄8年(1565年)に第13代将軍・足利義輝が永禄の変で三好三人衆に暗殺されると、藤英は弟の藤孝と共に義輝の弟で一乗院門跡・覚慶(足利義昭)を、監禁されていた興福寺から一色藤長、和田惟政、仁木義政、米田求政らと共に救出し、擁立して近江国矢島にて還俗させる。そして越前国の朝倉義景を頼り、ついで織田信長を頼った。, 義昭が織田信長に擁立されて将軍となると、山城国で伏見城周辺の守備を命じられた。その後も南山城の軍勢を率いて和田惟政・伊丹親興と共に三好氏との戦いに参加する一方、政治にも手腕を発揮して義昭の重臣となる。永禄11年(1568年)に大和守に叙任。, だが、義昭と信長が対立した時に弟・藤孝が義昭を裏切り信長方に付いたことを知って激怒、藤孝の居城である勝竜寺城を襲撃する計画を立てるが失敗する。元亀4年(1573年)7月3日に義昭が挙兵するとこれに従った。義昭自身は巨椋池の傍にある槇島城に籠城すると、藤英は二条城を任されて、奉公衆の伊勢貞興らの他、日野輝資・高倉永相などの武家昵近衆などと共に籠城した。しかし、信長の大軍に囲まれると7月8日には藤英以外の主要な人物は皆退去してしまい、一人藤英とその軍勢だけが二条城に籠る事態となり、ついに柴田勝家の説得を受け入れて7月10日に降伏した。, 降伏後、藤英は居城の伏見城に戻ったが、その目の前にある槇島城が織田軍の総攻撃により陥落し(槇島城の戦い)、降伏した義昭は信長によって三好義継の河内国若江城に追放され、室町幕府は事実上滅亡した。これにより藤英も信長に仕えることとなり、早速、いまだに淀城に立て籠もっている義昭派の岩成友通を攻めるように信長に言われ、藤孝と共にこれを陥落させ8月2日友通を討ち取った。, 翌年、信長によって突如所領を没収されて明智光秀の元に預けられると、嫡男の秋豪と共に坂本城で自害を命じられた。, 次男の光行は藤孝に預けられてそのまま細川氏に仕える。後に田辺城の戦いにおいて、光行がよく叔父を助けたことを知った徳川家康に高く評価されて旗本として召しだされた。一方、弟の長岡義重は三淵の名跡を継ぎ、細川氏に仕えた。, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=三淵藤英&oldid=79733238. 当時は貧窮して灯籠の油にさえ事欠くほどで、社殿から油を頂戴することもあったと言う。 →丹後・中山城 沼田清延(沼田延元)と女武将・沼田麝香も 細川藤孝(細川幽斎)は、1534年4月22日、三淵晴員の次男として京都東山にて誕生した。この父・三淵晴員は、和泉守護である細川元有の子で、足利将軍側近の三淵晴恒の養子となっていた。 ご指摘賜れば、再調査の上、必要に応じて修正・加筆など行いますので、誤字・脱字のご指摘と合わせて、コメント欄よりご一報賜りますと幸いです。, 残念ながら当方の承諾を得ていない、記事の流用や成りすましサイト・動画などが見受けられ弁護士と対処を検討中です。他サイトご利用の際にはご留意願います。. →天下分け目の山崎の戦い 明智光秀は遠慮して負けたか? 智慶院は将軍・足利義晴から下げ渡された女性だった為、細川藤孝は、将軍・足利義晴のご落胤であると言う説もある。, 萬吉(まんきち)と言う幼名だった細川藤孝は幼少の頃、国学者・儒学者である母方の清原宣賢の元で教育を受けたとされる。, 1540年(7歳)の時、父・三淵晴員の兄にあたる勝龍寺城主・細川元常の養子となったとされるが諸説あり、将軍近臣の細川高久の養子とする説もある。また、縁戚の吉田兼見の記述によると、細川幽斎は淡路守護・細川晴広を父親だと語ったとされている。 自慢できるものはありませんが、資格は史跡訪問のための国内旅行地理検定2級、水軍研究のための小型船舶操縦士1級など。, いつもご高覧賜りまして、深く御礼申し上げます。 細川幽斎改名; 発生条件: イベント「乱世、再び」にて柴田勝家か羽柴秀吉を選択するorイベント「本能寺の変」発生済: 結果: 細川藤孝が細川幽斎に改名する: 備考: 明智光秀と兵士との会話 細川藤孝(細川幽斎)は、1534年4月22日、三淵晴員の次男として京都東山にて誕生した。

→志賀親次と岡城~荒城の月の舞台でもある見事な山城の岡城 1577年10月、織田信長から離反した松永久秀が籠城した信貴山城を、織田信忠・明智光秀と共に落としている。, 1578年、織田信長の仲介により、嫡男・細川忠興と、明智光秀の娘・玉(細川ガラシャ)15歳が結婚。この時、織田信長の命により九曜を定紋とし、細川家の家紋となった。, 1579年には、織田信長の命により、細川藤孝・細川忠興・明智光秀らは丹後守護だった建部山城を攻めて一色義道を自害に追い込んだ。, 1580年、長岡家単独で丹後国に進攻するが、守護・一色満信の反撃にあい失敗するも、明智光秀の加勢を得て丹後南部を平定。 20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査・研究している歴史人物研究家です。 古今伝授の奥義を収めた筥(はこ)を戦火に消失させないように宮中に送り、籠城戦を戦った話は名高い。, 結果的に、西軍15000は田辺城に釘付けとなり、9月15日の関ヶ原の戦い本戦に間に合わず、徳川家康が勝利。 →細川忠興~文武両道の名将として戦国の世を・・ 幕府再興プレイしてます。信長の野望・大志 無印 足利家でプレイをして、序盤の攻略法をまとめてみました。シナリオ1 「河越夜戦」1545年 「河越夜戦」大名:足利義晴難易度:上級歴史イベント:ありこの条件でゲームスタートです。とにかく金銭収入

しかし、細川幽斎の討死と古今伝授の断絶を恐れた八条宮智仁親王は、ついに兄・後陽成天皇に奏請し、細川幽斎の歌道の弟子である大納言三条西実条と中納言中院通勝、中将烏丸光広を勅使として田辺城に送り、関ヶ原の戦いの2日前の9月13日に勅命により講和となった。 当サイトに掲載されている写真・画像、その他商品名・番組名などは、各社の商標・登録商標・著作物です。, 記載内容は可能な限り事実に基づき、公平になるよう配慮致しておりますが、史料自体の問題などもあり、中には誤認もあるかと存じます。

→足利義昭とは~信長包囲網など外交手腕に優れた最後の室町幕府将軍 →田辺城の戦い 細川幽斎の器量にて負け戦を勝ち戦に

→三淵藤英とは 足利義昭の擁立に尽力し最後まで再興を試みた幕臣 →明智光秀の解説【麒麟がくる】数奇なその生涯 同じころ、細川藤孝も信長の家臣となり、光秀の与力となっています。幕府では光秀よりも上にいた者たちが、こうして今度は部下となったわけです。 丹波攻めに際して →早川長政(早川長敏)とは~真田幸村とも共に戦った戦国末期の大名 家臣に松井康之らが加わり、近江国の六角義賢、若狭国の武田義統、越前国の朝倉義景らを頼って足利義昭の将軍任官に奔走。 Copyright ©   株式会社TOLEDO All rights reserved. →松井康之は丹波水軍の優れた大将だった~細川家の重臣 各ページのリンク・紹介は自由で報告も不要です。