!なぜ行った?理由(目的)や影響・結果など. から退き、各持株会社の重役も資産引き渡し後退陣する、等々。, 法的には旧三井物産と現在の三井物産には継続性はなく、全く個別の企業体です。. © 2019 The MITSUI Public Relations Committee. しかし、この財閥は戦後GHQに目をつけられてしまい解体されることになってしまいました。, 今回はそんな『財閥解体(ざいばつかいたい)』を日本の4つの財閥と合わせて、簡単にわかりやすく解説していきます。, 財閥解体とは、戦後の1945年(昭和20年)から1952年(昭和27年)にかけてGHQ主導で行われた当時日本の経済を牛耳っていた財閥を解体した出来事のことです。, 財閥とは創業者の一族や子孫などがグループ企業を支配しており独占している構造のことです。, 今では日本に財閥という企業はありませんが、お隣の国である韓国は今でもロッテやサムスンなどの企業が財閥として存在していますね。, さて、財閥解体を解説する前にまずは戦前あった財閥の中でも特に有名な4つの財閥を見てみましょう。, 三菱財閥は岩崎弥太郎によって海運業を起源として開業した財閥で、戦前では日本の企業を牛耳っていた代表的な企業でした。, そのほかにも三菱財閥は元々海運業だったことがあり、重工業に強く帝国連合海軍の軍艦などを製造したり、軽工業もカバーしていたなど戦前の日本の経済には三菱が欠かせないと言ってもいいほど三菱財閥は力を伸ばしていました。, ちなみに財閥解体された後は旧財閥の主要会社であった29社が三菱金曜会といって、毎月第2金曜日に定期的に会合を行なっているそうです。, 住友財閥は住友家が大阪で別子銅山という銅山を経営していたことを起源として開業した財閥であり、世界最古の財閥とも言われていました。, そんな住友家ですが、明治時代に入ると住友家は制銅業で多大な利益を得て銀行や保険業に進出し、財閥として急成長しました。, ちなみに、大阪で開業したこともありこの住友財閥は4大財閥の中では唯一大阪に本社を置いていました。, 三井財閥は江戸時代に三井高利によって呉服店である越後屋を開業したことを起源としている財閥です。, 今でも『三越百貨店』なんて聞いたことがあったり、行ったことがあるかもしれませんが、この三越というのは三井家の越後屋という意味でつけられたのです。, 三井銀行を創始し、さらに国が主導で作った官営の工場を三菱とともに優先的に払い下げたことによって軽工業が発展。三菱財閥と張り合うぐらいまでに拡大しました。, この安田財閥は元が両替商だったこともあり、明治時代に作られた安田銀行を中心に金融面で急速な発展を遂げ『金融の安田』と称されたほどでした。, さてここまで戦前の日本を牛耳っていた4つの財閥を見てきましたが、次はどうして財閥が解体されたのかを見てみましょう。, アメリカは日本の占領政策を進めるためにマッカーサー元帥を中心としたGHQ(連合軍最高司令官司令部)が日本に進駐し始め改革を行い始めます。, その中でGHQは日本の財閥というものに注目し始めました。それもそのはず、戦前の財閥は日本が戦争に突入した時に軍艦を製造したり、石油を供給したりするなど日本の軍部と深いつながりがありました。, そのためGHQは「もし、財閥を放っておいたら再び財閥と政府がくっついて軍国主義に戻るかもしれない」と思い始めます。, そんなことされたらたまったもんじゃないGHQはさっさと財閥を解体して日本の経済を自由化する方針を打ち立てます。, また、この頃日本には賠償問題もあり、財閥を中心に支払いを行うという事情もありました。, これはアメリカが日本の占領政策を転換してからの話ですが、アメリカは朝鮮戦争が勃発するとアジア諸国の中で資本主義国である日本の経済を成長させ、立派な国に仕立て上げるという方針を打ち立て始めます。, そのためには財閥が日本の経済を支配するという古臭い構造を取っ払って、いろんな企業が競争しながら経済成長していくという経済の自由化のために財閥を解体して新しい企業を作ろうとGHQは考えていました。, この指定ではこれまで個人向けにはほとんど販売されていなかった企業の株が個人向けに売られたり、持株会社整理委員会という組織に渡され、さらに企業の解散勧告によって財閥の解体は進んでいきます。, さらに1947年には企業が一つの分野を独占しないようにする法律である独占禁止法と過度経済力集中排除法が制定。, しかし、アメリカが占領政策を急転換してこともあり完全に財閥を解体することはなく、今でも上に書いた通り財閥名をつけている企業や旧財閥のグループ企業が存在しています。, 戦前の日本では資本主義社会とはいっても財閥という数少ない企業が経済を牛耳っており、アメリカなどの経済の自由化が進んでいる国に比べると少し遅れていました。, しかし、財閥を解体したことによって経済が一極支配されることはなくなり、日本では小さな会社でも十分な利益をあげられる可能性が生まれるようになりました。, さらに証券などの株を普通の一般人でも買えるようになって、日本はアメリカみたいな資本主義経済のような仕組みが完成しました。, 財閥を解体したことは中小企業からすればあまり関わっていない分野にも新規参入しやすい環境が整えられるようになりました。, 例としてあげるのであれば、本田宗一郎が創業したホンダ自動車、松下幸之助が創業した松下電器(パナソニック)、盛田昭夫によって創業されたソニーなどがあります。, 日本はこのように経済の自由化を受けたことによって、高度経済成長の時に世界二位の国内総生産を誇るまでにのし上がる原動力に変わっていくことになるのです。, ✔ 財閥解体とは戦後GHQによって行われた日本の財閥の株を個人に販売したり、解散勧告をした総称のこと。, ✔ 財閥は戦時中に政府に協力した背景があったためGHQは財閥を残しておくと日本がまた戦争に突入するかもしれないと思っていた。, ✔ GHQは最初の頃は財閥を完全に解体したかったのだが、朝鮮戦争を機に方針を変更して財閥解体は不完全に終わった。, ✔ この財閥解体によって日本は経済の自由化が進みソニーやホンダなどの戦後日本の支える企業が続々と誕生し、日本が経済大国になる礎を築いた。. 三井ゴールデン・グラブ野球教室, 法的には旧三井物産と現在の三井物産には継続性はなく、全く個別の企業体です。. また財閥解体後も、四大財閥などは企業グループとして再結集している。財閥の中核となる持株会社の設置は戦後長らく独占禁止法によって禁止され続けたものの、1997年の独占禁止法改正により持株会社が … 〘名〙 第二次世界大戦後、連合軍最高司令官の指令に基づいて行なわれた財閥の解体。それが天皇制、地主制と共に日本軍国主義の基盤とみなされたためで、持株会社の解体、財閥関係会社間の株式保有、役員兼任の禁止、企業の分散、財閥関係者の役員就任の制限などの一連の措置がとられ、その結果、三井、三菱、住友、安田、浅野などの一〇財閥家族五六人の企業集団に対する支配力が排除された。, 『E・M・ハードレー著、小原敬士・有賀美智子監訳『日本財閥の解体と再編成』(1973・東洋経済新報社)』.

日本敗戦後の1945年から1952年にかけghqの占領政策として財閥解体が行われました。 なぜ、敗戦しただけで財閥解体を要求されたのでしょうか。 解体理由は、財閥が日本軍国主義の制度を支援したとアメリカ側が考えたからです。 財閥解体はなぜ行われたのか? 財閥解体はなぜおこなわれたのかその目的や理由はなぜなのか、そしてその結果その後どのような影響をあたえたのでしょうか? 今回は財閥解体はどうやって進められていったのか流れをわかりやすく、そして簡単に見ていきたいと思います。 また、当サイトで提供する用語解説の著作権は、(株)朝日新聞社及び(株)朝日新聞出版等の権利者に帰属します。 はじめてでも使いやすい商品が多く、楽天ポイントをゲットできるサービスも。

財閥解体に向けて、日本政府と4財閥とghqは協議を行い、財閥解体のための行動を定めていきました。持株会社所有の有価証券を日本政府の機関に移管し、財閥の構成員を産業界から追放するのが主な内容 … (1848~1938), 人を讃え、人を潤し、人の力に。, サイト内ブックマークから削除しますか?, 戦時中、どちらかといえば“親米英的で平和主義的”な三井は、軍閥や右翼からさまざまな圧力を受けていた。だから戦争終結は、三井にとって一見受難の時代が終わりを告げたようでもあった。いよいよ自分たちの活躍できる時代がやってくる…。多くの三井マンは、そう期待を抱いたことだろう。だが、三井にとっての受難は、これからが本番であった。. ⑤財閥解体の実施. 解体に関するクレーマーからの提案書(公益財団法人 三井文庫提供) 解体の対象となる財閥は、三井、三菱、住友、安田である。そしてghqの意向は、財閥側の自発的な解体であった。 4大財閥の解体が正式決定したのは昭和20年(1945)11月6日。そのときの解体案は、概略以下のようなものであった。 1.

財閥解体はなぜおこなわれたのかその目的や理由はなぜなのか、そしてその結果その後どのような影響をあたえたのでしょうか?, 今回は財閥解体はどうやって進められていったのか流れをわかりやすく、そして簡単に見ていきたいと思います。, 第2次世界大戦後おこなわれGHQが実行に移した占領政策のうちの一つであり、戦前から日本の経済界を牛耳っており第2次世界大戦にも大きく関わりをもっていたと考えられた財閥を解体することにより、日本がもっていると思われていた軍国主義思想を根本から取り除くために実施した政策です。, GHQが命令を下し強制的に解体させるということでなく日本側が自主的に推進することが期待されていたため、GHQはあくまでもサポートをするだけの役割を担っているに過ぎませんでした。, 戦前日本の経済界を牛耳っていた財閥が戦後おこなわれた改革の一つとして解体が発表された後に、日本政府が4財閥やGHQと話し合い持株会社整理委員会を中心にこういった政策が推進されました。, わかりやすくいうと第2次世界大戦前の大日本帝国で経済界を牛耳り、日本が行ってきた戦争を経済的に支援をおこなってきていた財閥を解体することにより日本の経済的な民主化を図ろうとしたGHQが推進した政策です。, 特にアメリカなどの連合国側では財閥が第2次世界大戦を経済的に支援をおこなったという見解もあり、そのため財閥を解体しなければ軍国主義思想を消し去ることができないと思っており前向きな姿勢だったようです。, その結果持株会社整理委員会が発足され資本金500万円以上の会社、もしくは大蔵大臣が選定した会社の解散または事業譲渡に対する認可権をあたえ、5年間にわたって選定を受けた企業の解散がおこなわれました。, 第2次世界大戦前の経済界を牛耳り第2次世界大戦を経済的な面で手を回しており、大日本帝国の侵略を経済的に支援をあたえていた財閥を解体することにより、戦前から続いていた経済体制を再編させて経済の民主化を図り軍国主義的な思想を消滅させるという目論見がありました。, 特に財閥を解体せずに経済力を持ち続けてしまうと日本が再軍備をしてしまう可能性もり、そのような事態を防ぐためには財閥の力を失くすことが大切だと当時のGHQはおもっていたようです。, そして戦後日本には賠償問題もあって、賠償指定に際しては財閥系企業が優先に選定をうけるという極めて厳しい条項が盛られており、財閥保有工場を最優先とする賠償指定工場引渡し順位が採択を受けていたために進められたという理由もあります。, いわゆる4大財閥の持ち株会社が選定されたほか、富士産業も第一次指定で選定を受けなければならないという首相からの指示もあり、これに基づいて持株会社整理委員会が解散を勧告したことで本格的に開始されました。, 特に持株会社であった4社は最初から考えられていましたが、富士産業は第2次世界大戦末にすべての生産工場と従業員が第一軍需工場として大日本帝国の接収・徴用をうけていたという事実もあって連合国から純軍需産業である認識があったためにGHQから選定を受けてしまいました。, この結果1946年に五社から持株会社整理委員会が譲る受ける財産内容が伝えられて第1回有価証券譲受が執行されたことで持ち株会社が事実上無力化することになり、結果的に財閥解体の第一歩が踏み出されたということになりました。, さらに同じくしてこの5社に対して解散するように伝えられ、持ち株会社として長い間財閥でも大きな影響力を持っていましたが事実上の終焉を迎えることになり、その後の日本にも大きく影響をあたえました。, 第二次指定は1946年末に指定を受けた持ち株会社が解散された後に4大財閥に継ぐ規模の財閥などの約40社が第二次指定として持株会社整理委員会から解散がつたえられました。, 新興コンツェルンなどの持株会社、トラスト、各産業で独占・寡占的地位を維持されてきた企業が選定をうけており第一次指定の持ち株会社だけでなく、トラスト、独占・寡占的企業も選定の対象として勧告を受けることになりました。, 電力会社の半官半民のトラストの日本発送電株式会社は解散を宣告されて現在の東京電力や関西電力など9社に分割され、松下電器産業株式会社も解体を勧告されるなど現在でも残っている企業にも大きな影響をあたえました。, 第三次指定は第二次指定とほぼ同時期に選定をうけて財閥傘下の企業でなおかつその会社自体が各産業で独占・寡占的地位にありそして一次と二次指定で選定にならなかった企業が20社が選定を受けました。, 特に三井物産と三菱商事は経済が脆弱化することにつながるとして、解体を再考してもらうように持株会社整理委員会やGHQに対してロビー活動を展開しました。, しかしながらそれがGHQ側の反感を買うことになってしまいこの2社には特に厳しい整理措置を採るように要求を受けてしまう結果となり、その後経済的に大きな影響をあたえていた両社の解体は非常に困難を極め解体は長期化しました。, その後持株会社整理委員会は新たな会社の設立を図り三井物産を引き継ぐ日東倉庫建物と三菱商事を継承する光和実業を起業を促され両社合わせて1万人以上在籍していたと言われる社員は多数の会社に分散しました。, そして現在ではこのどちらも同じ企業名で存在しており、一時は分散しても再び同じ会社に戻ってくるという結果になりました。, 第四次指定は第三次指定までとは意味合いが違い財閥系企業の解体や反トラストといった目的で選定するといったものではありませんでした。, この第四次指定は電気通信施設の国有化政策という当時の政策に基づいて指定されたもので、便宜的に持株会社整理委員会の所管とされたために財閥解体の一部となりました。, 国際電気通信株式会社と日本電信電話工事株式会社がそれぞれ国際電信電話と日本電信電話公社新設のために解体されその後この2社が国営企業となりました。, 第五次指定は1947年9月に選定を受けて地方財閥・小規模財閥を対象としており全部で16社が解散の宣告を受け、今回で選定を受けた会社をもって解散を告げられた企業は最期となって当初の計画は完了を告げました。, ここで指定を受けた会社のうち豊田産業株式会社はトヨタ自動車等の持ち株会社、そして鈴木三栄株式会社は味の素等の持ち株会社など現在では大企業になっている企業の持ち株会社も解体が勧告されました。, 第2次世界大戦前は利益を一部で独占していることも多く経済の民主化がされてるとは言い難かったのですが、その結果市場を独占していた財閥系企業がなくなりさらに証券の民主化が促進され近代的な資本主義国家へと再編されることになりました。, そしてそれまでは市場が独占となっていたのが解消したおかげで新規参入しやすい環境が作られたことにより、新興企業も数多く起業されソニーやホンダなど現在でも名の通っている会社が中小企業から大企業へと発展が遂げられるなど財閥系以外の企業が成長することができました。, 今まで市場に参入しづらかったりシェアを広げることが困難だった企業が成長できるきっかけとなり、ソニーやホンダなどが成長できる機会となり日本経済の民主化が進められました。, その後にあたえた影響はとても大きいものがあり、特に今まで日本の経済界を牛耳り支配していた財閥が解体され再編されてしまったことで日本経済界は変革を求められることになり、その後の日本の発展に大きく影響をあたえたと言われています。, その後解体されてしまった財閥はかつてほどの影響力はないですが次第に旧グループ企業で集結し次第に力を持ち始め高度経済成長などもあり現在でも旧財閥系企業は大企業として経済界に君臨しています。, しかし財閥系企業が一度は力をなくしたことにより証券が民主化し株式取引を前よりも活発化させ、独占されていた市場が広く開かれたので新規企業が参入しやすくなるなどその後にあたえた影響はとても大きかったと言えます。, 戦後GHQが推進したことでおこなわれ再軍備と軍国主義的思想を消滅させるという目論みがありましたが結果的に日本の経済界に大きく影響をあたえ、現在にもその影響が残っています。, しかし再編を受けたことにより現在では大企業になっているソニーやホンダなどが成長できるきっかけとなり、そして旧財閥系企業は再集結を図り現在では第2次世界大戦前ほどではありませんが現在では再び日本経済界に大きな影響をあたえるまでに再建しています。, 「お金のコトをもっと身近に」というミッションで、みんなのお金ドットコム(みんかね)を運営しています。 出典 ASCII.jpデジタル用語辞典ASCII.jpデジタル用語辞典について 情報, 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報, 農地改革や労使関係の改革とともに、連合国の戦後対日占領政策の主柱をなすものであり、その目的は、日本の非軍事化を実現するために、軍国主義の経済的基盤とみられた財閥を取り除くことであった。こうした方針は、すでに日本の敗戦の1年前ごろから検討されていたが、敗戦直後の1945年(昭和20)9月に発表された「降伏後における米国の初期の対日方針」のなかで、「日本の商工業の大部分を支配する産業と金融の大コンビネーションの解体」として打ち出された。財閥解体をほとんど予想していなかった日本の財界は大きな衝撃を受け、財閥側は解体に抵抗し、自主的改革を通じて解体を回避しようとしたが、占領軍は承認しなかった。占領軍の基本方針は、財閥の持株会社を解散させるとともに、財閥家族の持株を放出させ、会社役員からも追放して、彼らの企業支配力を奪うことであり、四大財閥(三井、三菱(みつびし)、住友、安田)本社解体、中小財閥の解体、兼任重役制と法人持株による企業支配の解体、独占禁止法制定などの計画提出が日本政府に指示された。ついで11月には制限会社令が公布され、解体逃れの動きが封じ込められた。, 解体作業は、1946年8月に発足した持株会社整理委員会により執行され、47年9月までに5回に分けて83社が持株会社の指定を受けた。四大財閥の本社のほか、浅野、大倉、野村、片倉など中小財閥の本社は解散させられ、川崎重工業、古河鉱業(現古河機械金属)など現業部門をもつ持株会社は、持株を処分したうえで、企業再建整備法による再建計画を作成することになった。持株など有価証券は、持株会社整理委員会の手に委譲されたのち、一般に売却され、ここに財閥の中枢機関は消滅した。同時に、財閥の人的支配の排除が進められ、財閥家族として指定された56人に対し、持株の処分やいっさいの会社役員の地位を去ることが命ぜられた。並行して、戦争協力者の公職追放も実施され、大企業を中心に約1500人の財界人が役員から退陣し、諸企業の経営陣は一新されていった。, こうして推進された財閥解体政策は、その実施過程で、アメリカ政府や占領軍内部で勢力のあったニューディーラーの反独占政策の理念の影響を強く受けて、持株会社の解体からさらに進んで大企業の分割を求める集中排除政策にまで発展していった。占領軍の集中排除政策に対する積極的姿勢は、当時企業分割案を検討中であった三井物産、三菱商事に対して、徹底的解散を指令したことにも現れていた。そして、1947年12月過度経済力集中排除法が公布され、翌年2月には鉱工業257社、配給・サービス業68社が過度の経済力集中として指定された。これらの企業の分割が実施されると日本経済は大混乱に陥るおそれがあったが、おりから米ソ冷戦の進行とともに、アメリカ政府は対日政策を非軍事化から経済自立の促進に転換し、賠償や集中排除政策の緩和を打ち出した。結局、日本製鉄、三菱重工業など18社が集中排除の対象とされ、企業分割が適用されたのは11社にとどまり、集中排除政策は骨抜きになった。こうして49年ごろまでに財閥解体措置はほぼ完了した。, その後、占領の終結とともに、財閥解体で手が触れられなかった銀行を中心に旧財閥系企業集団が形成されたが、家族・同族の支配が復活することはなかった。財閥解体は経営者の若返りと競争的産業体制を実現し、戦後の日本企業の革新的企業活動の前提条件をつくったといえる。, 『持株会社整理委員会編・刊『日本財閥とその解体』上下(1951)』▽『E・M・ハードレー著、小原敬士・有賀美智子監訳『日本財閥の解体と再編成』(1973・東洋経済新報社)』, 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例, …アメリカ占領軍の初期の対日政策の基本方針は,〈降伏後における米国の初期対日方針〉(1945年9月発表)に示されているように,日本が再びアメリカの脅威とならないための非軍事化と,そのアメリカの目的を将来にわたって保障するための民主化とにおかれた。この方針のもとに占領直後から1947年にかけて,軍隊の解体,軍工廠の管理,教育の自由主義化,労働者の団結権の保障等々の旧秩序の民主主義的変革と,財閥解体,農地改革等の経済民主化とがつぎつぎと実行に移された。しかし,ヨーロッパ情勢の緊迫からアメリカの世界政策が〈冷戦の論理〉を明確にし(1947年3月,トルーマン・ドクトリン),中国革命の進展に伴う東アジアの革命的情勢の進展につれて,47年から48年にかけてアメリカの対日政策は,非軍事化=民主化を基調とする政策から,日本に〈反共の防壁〉としての役割を期待する経済自立化政策へ転換をとげていった(1948年1月,ローヤル陸軍長官声明)。….

No reproduction or republication without written permission. • 日本では、1945年より1952年にかけて行われた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領政策の1つ。→本項で詳述する。 ©The Asahi Shimbun Company / VOYAGE MARKETING, Inc. All rights reserved. ¨ï¼‰ 4大財閥の解体が正式決定したのは昭和20年(1945)11月6日。 そのときの解体案は、概略以下のようなものであった。 4大財閥の本拠たる各持株会社(三井の場合は三井本社)は、日本政府が設置する持株整理委員会(HCLC)に一切の所有証券などを移管する。 1 馬車や農機などの車輪が動かないよう、所定の穴に指して固定するピン。2 (比喩的に)物事の要(かなめ)。... 「コトバンク」は朝日新聞社の登録商標です。「コトバンク」のサイトの著作権は(株)朝日新聞社及び(株)VOYAGE MARKETINGに帰属します。 4財閥に課せられた自発的解体の強制. 貯まったポイントは、振込手数料、楽天銀行デビットカードの支払いにつかうこともできます。, 財閥とは同族によって出資・支配される企業グループのこと。持株会社を中核として、さまざまな分野に進出していました。中でも古い歴史を持つのは住友で、業祖が最初に銅吹所をはじめたのは1590年のこととされています。三井も江戸時代までには事業をはじめており、さらに安田、三菱と合わせて四大財閥と呼ばれるようになりました。今でも多くの企業にその名が残っており、なんとなく名門のイメージがあるかもしれません。, 財閥が解体されたのは戦後のことです。財閥の力が国家権力にも及び、軍国主義に加勢したと考えられたため、GHQの占領政策のひとつとして執行されました。, 楽天銀行はネットで簡単に口座開設ができます。もちろんネット銀行ならではのお得なメリットがあり「節約したい」「ポイントを貯めたい」などマネ活世代に役立つあれこれも。メリットの詳細と口座開設方法の詳しい情報はこちら, 財閥解体の方針は1945年9月22日にアメリカ政府が発表した「降伏後における米国の初期の対日方針」の中に書かれています。「日本の商業及び生産上の大部分を支配し来りたる産業上及び金融上の大コンビネーションの解体を促進」という記述があり、財閥を解体することが日本の軍国主義の撲滅につながると考えました。, 財閥解体に向けて、日本政府と4財閥とGHQは協議を行い、財閥解体のための行動を定めていきました。持株会社所有の有価証券を日本政府の機関に移管し、財閥の構成員を産業界から追放するのが主な内容です。持株会社は傘下企業への指令権や管理権を行使することを禁じられ、コンツェルンとしての財閥を消滅させるのが具体的な考えでした。この骨子をもとに1945年11月23日には「会社ノ解散ノ制限等ノ件」が公布され、財閥解体がはじまります。, 「会社ノ解散ノ制限等ノ件」では、資本金500万円以上の会社と大蔵大臣の指定する会社が対象になることが定められています。1946年9月6日にまず指定されたのは三井・三菱・住友・安田の4大財閥と、富士産業株式会社(旧中島飛行機)の5社でした。, なぜここに富士産業が入るのか疑問に思われる方もいるかもしれません。前身の中島飛行機は軍用航空機メーカーで、終戦直前にはすべての施設や社員が日本政府に接収・徴用されていたためです。連合国側は財閥とは別枠で、富士産業の解散を求めていました。, 三井財閥は軍部と対立関係にあったため、軍需産業とは関係ないと主張したのですが、結果的に解体させられてしまいました。1946年9月30日の株主総会の決議によって三井本社は正式に解散。当時、三井財閥の傘下には270社の会社がありましたが、すべて持株会社整理委員会によって処理されてしまいました。, 1949年、GHQは旧財閥企業に対し、三井・三菱・住友の商号商標を使用禁止にする命令を発令しました。旧財閥はこれに反対し、GHQに対して陳情書を提出するなどの活動を行います。結果的に使用禁止令は廃止され、現在に至るまで名前が残り続けています。, 1946年12月7日には、4大財閥以外の大手財閥や、各産業で独占・寡占的な地位を築いていた企業40社が指定され、日本発送電株式会社は電力9社に分割されました。ほかにも造船、電気機器、化学、製鉄、製紙、鉱山、海運、繊維などの分野の企業が解体することになります。, 1946年12月28日に指定されたのは、財閥傘下で各産業の独占・寡占的地位にあった20社です。三井系の三井鉱山・三井物産・三井化学工業や、三菱系の三菱重工業・三菱鉱業・三菱電機、住友系の扶桑金属工業・日本電気・日新化学工業などが挙げられます。, 1947年3月15日に指定されたのは国際電気通信株式会社と日本電信電話工事株式会社の2社。これまでの企業とは違い、電気通信施設の国有化のための指定でした。2社は国有化のあと、現在はKDDIとNTTになっています。, 楽天証券は低コストではじめられる、続けられる資産運用のサポートが特徴。